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季刊文科編集委員によるコラム「砦」を一挙公開。

季刊文科54号 砦

松本道介

 経済については文字通り無知な私が言うのもおかしいのだが、無知な人間だからこそ言いたいことがある。
 ギリシア一国の経済がおかしくなった末にEU全体が揺らいできた。今迄はヨーロッパが揺らいでもアメリカが支えてくれたものの、アメリカ財政も麻痺していて、 EUに対する援助などまったく期待出来なくなった。
 マルクス主義なるものはすでに過去のものとなったのだろう。それでは資本主義全盛の時代が来たのかと思いきや、資本は資本でも金融資本とやらがとてつもなく大きなものになり、何百兆か何千兆か知らないが、大国の予算をはるかにこえる金額を用意して襲いかかるので、大国とても一国の破産という事態を防ぎ切れなくなったらしい。
 最近のニュースだと、 EU各国のドミノ倒しという最悪の事態は防げたものの、それだけの話で、昔のような世界全体の好景気といった時代は最早永遠にやってこないように思われる。
 かりにそうなのだとすれば、無知な人間の一人として突拍子もないことを言ってみたい。
 例えば百五十年前の日本のような鎖国の自由といったものを認めることはできないのか。
 江戸時代二百五十年の日本は世界で最も平和な、最も美しい国家であり続けた。現在の地球にあって最も重要な思想(?)である筈のエコロジーに於いて最も進んだ国でさえあった。それでいてエコロジーの思想とかリサイクルの思想とかのまったくない国でもあった。
 最近の環太平洋パートナーシップ協定の交渉参加問題について日本農業の壊滅を説く人もいることを思うと、とんでもない暴論ではないつもりなのだが・・・・・・

勝又 浩

 近くに彼岸花の群生するところがあって、毎年その頃になると新聞に紹介される。今年は思いきって出かけたが、既に盛りは過ぎていて九割がたは芯、骨ばかりになっていた。お互い定年後の花だね、などと自嘲しながら一里ばかりあるという道をお終いまで歩いた。
 幅一間位の小川が一直線に伸びて、その両岸にたまに白を交えて彼岸花ばかりが赤い帯を作っている。盛りにはお祭があって屋台店も出るらしい。それを避けて行ったせいもあるが、コースの後半は人っ子一人見えなくて本当にのんびり、しかし実は少し退屈もしながら歩いた。そして歩きながら、彼岸花なんかわざわざ見に行くような花ではなかったのになあ、というような話をしたのである。田や畑、お墓の周りには必ず咲いていたが、あれは毒だから触るなと言われていた。子供も避けるような花だった。
 後に興味をもって調べたことがあったが、柳田国男の文章には彼岸花の全国各地での呼び方が二ページ近く列記してあった。大方はシビトバナ、ステゴバナ、テンガイ(天涯)バナ、ユウレン(幽霊)バナの類。ことさら不吉な名を付けて近づかないようにさせたのであろう。そんな嫌われ者であるのに、飢饉のときは食用にして、晒し方が足りなくて命を落とす例が沢山あったのだという。
 そんな花が今、わざわざ見に行ったり、役所が音頭をとってお祭をしたりするようになったのだ。花が出世したのか、世が様変わりしたのか。
 もっともこう書いて思い出したが、彼岸花の別名は曼珠沙華だった。曼珠沙華は空想上の天界の花だから、地獄と浄土と、もともと両世界を代表していたのだ。
 いま都会のコンクリート地獄のなかで、人はかつてのシビトバナに天界の夢の方を託しているのかもしれない。
――むらがりて
   いよいよ寂しひがん花
        (日野草城)

松本 徹

  歌舞伎では、『仮名手本忠臣蔵』の大序を初め社頭を舞台とするものが少なくないが、ギリシア古典劇でもそうであったらしい。エウリピデス『ヘラクレス』が「ゼウスの祭壇前」となっている。ヘラクレスが留守の間、家族たちは、当の都市を支配している僭主の迫害を避け、そこに身を置いているという設定である。
 演劇の発生の源のひとつが、宗教的な施設であるのは世界的に広く認められるが、わが国も例外ではなく、能が社寺と結び付いて発達したことはよく知られている。
 こうしたことを改めて持ち出したのも、新国立劇場で三島由紀夫『朱雀家の滅亡』(宮田慶子演出)を見たからである。
 「エウリピデス『ヘラクレス』に拠る」と断り書きがあり、ト書きには、弁財天社を上手を出すよう指示している。多分、三島でさえ神社を出すのに遠慮があり、エウリピデスの名を借りた、という側面があったのではないか。そうでもしなくては、時代錯誤もはなはだしい、と言われかねなかった。
 ところが新国立劇場では、舞台中央の奥、段の上の最も目立つところに、鳥居を思わせる赤い枠が据えられ、四幕を通じて微光を発し続ける。そして、その前に舞台が長く張り出し、両側にも客席が設けられていた。
 三島のト書きから踏み出し、徹底してエウリピデスに就いたと言ってもよかろう。文字通り弁財天社の前で、劇が繰り広げられかたちである。
 宮田さんの発明であろうが、この戯曲は、こうすることによって内包するものがよく展開された。なにしろ絶対的な域にまで、理念、美意識を突き詰め、悲劇的崩壊に至るまでが扱われているのだから。
 戦後、こういうドラマを見なかったなと改めて思わずにおれなかった。

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