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季刊文科編集委員によるコラム「砦」を一挙公開。

季刊文科50号 砦

松本道介

 みんな民主党の悪口を言うけれども、この党のありようこそ今の日本人の縮図のような気がする。
 民主党は政党だから党員同士は仲間の筈なのに仲はちっともよくない。文字通り烏合の衆であり、信じるものは何もない。党是とか党の方針とかいったものがある筈なのに、そんなもの誰も知らないし、国民とても民主党が何者であるのかさっぱりわからない。自民党とどこが違うのか、社会党や共産党ともどこが違うのかさっぱりわからない。
 信じるものはお金だけ。なぜお金だけかと言えば、金融がすべてという世の中になってしまったからである。リーマン・ショックとか言っても、リーマンがつぶれたとか社員が路頭に迷うなんていう話も聞かないし、金融は世界に君臨している。金融の侵略を恐れて大会社のほとんどが○○ホールディングスを名乗っている。
 庶民は言うだろう。自分は株など持たないし、銀行にも証券会社にも関係ないのに・・・・・・と。むろんそういう人はたくさんいる。
 しかし曲者は成長率=GDPである。お金を使わないのが一番いい。少しでも使うと、あるいは少しでも借りたり貸したりすると、成長率はあがって金融がほくそ笑む。
 江戸時代の日本は成長率が低かった。我々の先祖はお金を使わなかった。寺子屋は授業料なんてとらなかったし、"赤ひげ"の医者もいっぱいいた。隣近所で鍋釜が往来することも日常茶飯だった。
 今よりお金の往来がはるかに少なかったがゆえに人情もあれば友情もあった。大学なぞまったくなかったのに、文化の水位は現代とは較べものにならないほど高かったし、皆明るく澄んだ目をしていた。
 江戸末期に異国人のとった写真を一寸見ればそれははっきりわかる。

大河内昭爾

 三浦哲郎が亡くなった時に、文芸誌から追悼文の依頼をうけたが、なかなか右から左にという具合には筆がとれなかった。三浦さんとは親しかったし、書くことがいっぱいありすぎて、かえって書けなかったのである。
 私は井伏鱒二のところに出向くたびに三浦さんのことを話題にした。彼の抒情性は率直でのびがいい。気負いのない自然体の文章で、深刻な環境にありながら、それをじかに出さないで、彼の風貌どおりものやわらかに表現する。語り口はいかにも井伏鱒二の流れをしのばせるものだった。あの独特のしわがれた声も今もって耳から離れない。
 人柄が好き、作風も好き、それに「忍ぶ川」があまりにも叙情的すぎて、とやかく口をはさむことが出来なかった。
 「忍ぶ川」が登場したころは古風、あるいは古風すぎるという評価がもっぱらだった。私自身も当時の芥川賞としては落着きすぎていると思った。今少し新鮮なもの、新規なものを期待してもいた。
 しかし今から思うと、その叙情性の正当さはゆるぎのないものだった。むしろ古典的というべき存在だった。抒情の典型的な作品として、「忍ぶ川」はすでに古典としてのかけがえのない性格をそなえていた。これこそは抒情というものの典型で、当時は古風すぎると思われたが、日本の抒情の本来の姿を具現していた。
 三浦哲郎には軽薄なものが全くなかったし、新規なものを狙うようないやしさもなかった。師匠井伏鱒二の持っている風格を若い時から身につけていた。井伏さんのようにとぼけた技巧を工夫するわけではなかったが、自然な存在感として、それをそなえていた。天成の技巧というよりは性格的なもので、人柄そのもののように周囲には訴える強みを持っていた。なんとしてもなつかしい作家だった。

勝又 浩

 今度の芥川賞受賞作「乙女の密告」は、私には随分気分の悪いものだった。だいたい事柄の捉え方が不正確だし、ことばにたいして呆れるほどの鈍感さだ。だが、それはまだ改める余地があるとしても、決定的にはそこにある欺瞞性に我慢がならなかったのだ。
 そこへこの作者が授賞式で、「作品を書きながら、大きな迷いとためらいがあった。今現在、アメロンヘンの言葉は私自身に突き刺さっている。この言葉を一生背負っていきたい」(8月24日、読売新聞)と挨拶したと知って、ああこの人は本当にダメだと、いよいよ思わざるを得なかった。これは、自分の間違いは分ってます、ということに他ならない。まるでルージン(「罪と罰」)のような偽者ではないか。作中の自己とは何か問答などは流行の衣装にすぎないわけだ。文学は何よりもこういう人間のあり方自体に敏感でなければならないのに、と。
 かつて江藤淳が「フォーニィ考」を書いたように(そのなかには当らない作家もいるが)、現実にはこういうことがいつもあるわけだ。私がいくら歯軋りをしてもどうにもならないが、実は私が密かに自分の遺著にしようと思っている仕事に、「嫌悪の日本文学誌―日本文学をダメにした作家作品」がある。そこには既に二〇人くらいの作家が上っているが、今年はもう一人増えたかもしれない。
 そんなことを思っていたら、先の新聞の同じ日の夕刊に、アンネ博物館の庭の樹齢一五〇年とかの栗の木が倒壊したという記事が出ていて驚いた。むろんアンネが毎日見ていた木だ。偶然にしてもショッキングな話だが、私は一瞬だが「やっぱり天は見ていたのだ」と思った。大仰な言い草だが、「乙女の密告」にはそのくらい気分が悪かったのだ。アメロンヘンもさぞ泣いている、怒っていることだろう。

松本 徹

  歌舞伎座が消えて、歌舞伎公演を新橋演舞場で見るようになって、どこかしっくりしない気持がつきまとっていた。ところが十月の夜の部は、久しぶりに歌舞伎の古風な香気が楽しめた。
 なかでも仁左衛門の「盛綱陣屋」が図抜けていた。
 この狂言を初めて見て、歌舞伎の魅力に目を見開く思いをしたものだが、それは京都南座の顔見せ興行でのこと、盛綱役は市川寿海であった。番付の巻末に掲げられている上演記録を見ると、なんと昭和四十年(一九六五)十二月のことで、篝火が歌右衛門、微妙が鴈治郎、早瀬が扇雀、和田兵衛が仁左衛門、言うまでもなくいずれも先代である。
 歌舞伎の場合、上演記録を見るのが楽しみの一つで、眺めていると、昔の役者の姿が、今日目にする役者と微妙に重なって浮かんで来るのだ。
 ただし、当時すでに寿海は老年で、顔は爺さんそのものであった。皺くちゃに縮んだ感じで、白粉も肌にうまく乗っていない。
 こんな役者が出てきてどうなるのだろうと若いわたしは見ていたが、台詞を一旦口にすると、心を奪われてしまった。音吐朗々としてメリハリが利き、悲壮な思いを玲瓏と表現する。こうなると、白粉もなじまぬ爺さん顔が、凛々しくも涼しい武士に見えて来たから不思議である。
 現仁左衛門は顔よし姿よし声よしの、見事な盛綱であった。この狂言自体は、企みが凝らされ過ぎて、あまり上等なものではないと思うが、舞台は悲劇的感情に溢れ、かつ、古典の品格を備えたものであった。
 また、三津五郎の信楽太郎が、込めた力と技が一体となって、まことに爽快であった。このように本筋とあまり関係ない役を、名のある役者が力一杯に演じるのを見るのも、醍醐味である。

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