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季刊文科編集委員によるコラム「砦」を一挙公開。

季刊文科48号 砦

松本道介

 ニーチェは「アンチ・クリスト」という著作もあるし、「神は死んだ」という言葉でも有名な十九世紀後半の哲学者である。
 ニヒリズムというのは(日本ではともかく西洋では)当の時代に通用している認識や価値を根底から否定する考え方という意味だから、「神は死んだ」という言葉で有名なニーチェは、当然ながら十九世紀最大のニヒリストである。しかし教会の側からすると、ニーチェはそれほどこわい存在ではなかったと思う。「神は死んだ」と言うと、少なくとも”死ぬ”前は生きていたことになるし、教会にくる善男善女たちはニーチェの書くような難しい哲学書はあまり読もうとしなかったから大した影響はない。
 これに対しニーチェより百五十年くらい前のフランス人ヴォルテールは文章もやさしいし、「神は死んだ」といった激しい言葉は一語も発していない。一番有名な言葉は「哲学辞典」の中の「正と不正」という文章の中で〈イエスは形而上学的教義をなんら示さず、神学上の覚書もまったく著わさなかった。彼は、「われは神と一体である・・・・・・」などとけっして述べなかった〉という歴史上の事実を述べただけである。
 つまりヴォルテールは神を否定することなどまったくおこなっていない。したがってニヒリストなどではないし、ニーチェなどとはまったく別の種類の人間なのである。
 しかし教会側にとってこんなにいやな人間はなかったと思う。ヴォルテールはふつうの歴史学者として、生前のキリストには神になる予感さえなかったという事実をさりげなく述べただけだが、教会側にこんなにいやな指摘はない。ヴォルテールが蛇蝎のごとく忌み嫌われ著作を禁書にされた理由が最近やっとわかるようになった。

『鹿鳴集』への初心 大河内昭爾

 旧制中学四年の春、佐世保海軍工廠に動員された折、所持可能な本は一冊と決まっていた。私は會津八一の『鹿鳴集』を選んだが、職員室前の廊下に整列して所持品検査が行われた時、級友の所持本は申し合わせたように『戦陣訓』が圧倒的に多かったのにびっくりした。あとは教練の教科書がそれに次いでいたように記憶している。それらが海軍兵学校、陸軍士官学校の受験に必携の教科書類の筆頭と信じられていたからだった。私だけが当時無用の歌集、つまり『鹿鳴集』を持参して配属将校の制裁を受けたのである。何しろ戦争さ中、文学書を読むこと自体が時局にふさわしくないという時勢だった。その代わり東条英機陸軍大臣推奨の『戦陣訓』は一字一句過ち無く暗誦しなければならなかった。私は激しく?を殴られても『戦陣訓』や『軍人勅諭』の暗誦はどうしても不可能だったが、『鹿鳴集』は大方そらんじていたのである。
 戦後、大学進学の折、私が躊躇無く文学部を目ざした根拠は會津八一『鹿鳴集』への心酔があったといっても過言ではない。
 今でも夏の風を感じると、
 はつなつのかぜとなりぬと
 みほとけは?をゆびのうれ
 にほのしらすらし
の歌をごく自然に思い出して口ずさんでいる。佐世保へ出かけた当初は、この一首ほど私のこころをとらえた歌はなかった。それはそのまま田舎の座敷を吹き抜けた夏休みの風を、そして夕食に私を呼ぶ母の懐かしい声を思いおこさせるのに十分だったのである。早稲田の高等学院に入学した年、昭和二十三年の夏、大隈講堂での會津八一先生の講演会が開かれた日のことは、先生の風貌と共に今でも思い起こすことが出来る。自分の信じること、好きなことに打ち込めという一事を口にされたことだけが記憶に鮮明である。

勝又 浩

 時代はこういうふうに変わって行くのか、と思わせたのは雑誌「文學界」の「新企画」と銘打った「四次選考講評」欄のこと。昨年の一一月号に初めて現れて、この五月号にその二回目が載っている。詳しくはそれを見ていただけばよいが、要するに、文學界新人賞への応募状況報告と、最終候補五作に並びながら落とされた四次選考一二作品についての、編集部の「講評」コメントである。
 ご承知のように「文學界」は半世紀余続いてきた「同人雑誌評」欄を平成二〇年一二月号をもって閉じた。それに代って現れたのがこの「新企画」である。五月号によれば、反響もあり、充分意義ありと判断したので続行するとある。そこにも報告されているが、今回の応募作は千六百余編、前回が二千余編。一二月締切りの方が少ないのは例年のことで、こんな比率のまま応募数はどんどん増加しつつあるのだという。この傾向はおそらく他の文芸誌でも似たようなものではないだろうか。
 文芸書全体の衰退傾向はずっと言われっ放しだが、なかで新人賞応募者の増大傾向もずっと言われている。もうずいぶん前に廃刊になったある雑誌などはお終い頃の売上げ部数が新人賞応募数より下回ったという話さえあった。思うに、この現象の裏側にあるのが同人雑誌数の減少という現象ではないかと思われる。どうも、この頃の鳩山内閣支持率グラフではないが、下がってくる同人雑誌数と上がってくる新人賞応募数が見合っているのだ。そして、その二線の交差するところが平成二〇年、つまり「文學界」の「同人雑誌評」欄が廃止された年だったのではないか。
 で、何なのだ―イメージとしては、同人雑誌数の下降は、その存在意義と価値との上昇に繋がっている、行くだろうと、今は思っている。

松本 徹

  東京で生まれ育ったわけではないので、すっかり馴染み切るとまではいかなかったが、歌舞伎座にはずいぶん通った。それだけに改築されるとなると、その間、芝居を見にどこへ行けばよいか、落ち着かない気分でいる。
 しかし、一年を越える「さよなら公演」には少々問題があったのではないか。殊に今年になると二部興行が三部興行になり、食事をとる時間もなくなった。幕間に食事をし、売店をひやかすのが結構楽しみであったから、驚いた。このような扱いは、ちよっと阿漕でなかったろうか。
 演目にも少々問題があった。三月、「弁天娘女男白浪」の「浜松屋見世先の場」の、花道の引っ込みを見ていて、あ、正月に見たのと同じじゃないか、と思った。弁天小僧が浜松屋から強請り取った金の分け前を、南郷力丸が暗に要求するのだが、そのやりとりが「与話情浮名横櫛」も「源氏店妾宅の場」の花道の引っ込みで、与三郎がお富からせびり取った金の分け前を、蝙蝠の安が暗に要求するのと、そっくり同じだったのである。
 この部分は黙阿弥の原作にないから、三部興行の時間に合わせるため、こしらえただろう。それにしても一ケ月置いた前の舞台そっくりでは、客を馬鹿にしているとしか思えない。それともそんな客はいないとでも思っているのだろうか。
 総体にちゃり場の扱いがお手軽で、演じ方が型にはまっている弊害がもろに出たのであろう。「源氏店」のお富に白粉を塗られた番頭の顔、「筆法伝授」の左中弁希世役の悪ふざけ、「相撲場」の若旦那のデレデレぶりなど、もう見たくもないなと思う。
 かって名優によって案出された型も、もうとっくに賞味期限が切れているのだ。ちゃり場ではそういうことが起こるとみえる。

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