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季刊文科編集委員によるコラム「砦」を一挙公開。

季刊文科43号 砦

松本道介

 私は長谷川修を自分より少し上の昭和五、六年生まれの作家だと思っていた。今度年譜を見て知ったのだが、何と大正十五年三月の生まれ、一歳上の三島由紀夫とは同世代の作家なのだった。
「舞踏会の手帖」を久しぶりに読んで胸がときめいた。日本という国の滅亡が必至となった昭和十九年、旧制高校生の主人公は授業を休んで、かのフランス映画「舞踏会の手帖」を十三回も見たあと死の床にいる映画狂の友人を訪ねる。三日間も滞在して映画の一場面一場面を語りつくす。中に出てきた詩を耳にした友人は「待てよ、そりゃヴェルレーヌの詩じゃないか」と原詩をとり出し、二人で音読しながら"魂の恍惚"を味わう。
 神に選ばれた者のみが死を前にして知る"魂の恍惚"──長谷川修はその恍惚を描きえた唯一人の作家ではなかったろうか。
 吉行淳之介、辻邦生、北杜夫そして遠藤周作……滅亡への予感の中で青春を迎えた同世代の作家たちの誰一人"魂の恍惚"を経験せず、これを作品の中に描くこともなかったように思う。
 三島由紀夫はどうなのか。三島もこの恍惚を経験せずに終ったが、彼が特異なのは戦後になって、それも戦後を二十年近くも経た時代になって狂おしい迄に"魂の恍惚"を求め出したことである。平和と民主主義の栄える"明るい日本"にあってその明るさに唯一人さからうかたちで、死にゆく間際の選ばれし男の恍惚を追い求めた。
 だが、冷静に考えると、"魂の恍惚"はどこ迄も西洋の特殊な伝統の中にしか見出せない。選ばれた殉教者が死を前にしてかいま見る天国の恍惚などついに見いだすことなく、三島は「天人五衰」最終章のなにもない場所すなわち"無"の中に帰って行くしかなかった。

「食」の雑誌 大河内昭爾

 味覚雑誌「食食食(季刊)の佐々木芳人編集長が六号で雑誌を手放したのに代わって、一九七六年、にわかに編集をまかせられた私は、雑誌からあらためて食通の概念を払拭することを第一義とした。「あさめし・ひるめし・ばんめし」をタイトルにしていた雑誌は、もともと食通志向は稀薄だったが、私はことさらそれに対して挑戦的編集をめざした。食通のかけらもないように「食いしん坊の雑誌」を強調した。小島政二郎氏が人気のエッセイ「食いしん坊」を連載していたので、味覚案内に加えて文壇噺を積極的にとりこんで貰った。「食食食」に加担したのも、刊行もとだけでなく、小島政二郎氏の要請があったからだった。そして十年、四十五号で一応終刊とした。
 翌年の一九八七年夏「食の文学館」一号として再出発。「有職故実」を気取って文学と食をあらためて結びつけることにした。国文学の雑誌では衣裳などと組み合わせて特集を組むことも行われていたので、私はことさら食と文学、とりわけ近代、現代の文学と食を結んで文学雑誌に仕立て直した。吉村昭氏に新しく連載に加わって貰ったのもその一つである。吉村昭を新しい味覚エッセイの書き手として期待したのであった。私の文壇の知己を動員して文壇雑誌への変貌は容易だった。大学に勤務のまま編集するので文学部にちなんで「食の文学館」と改題し、大学とつながりの深かった紀伊国屋書店を発行所にして、表紙、内容を一新。椎名誠氏の人気コラム(朝日新聞)にその変貌ぶりを評価してもらったので、再出発は順調にみえた。しかし間もなく大学の学長に就任し、つづけて学校法人の責任者をかねたので、わずか八号で編集から離れざるを得なかったし、雑誌も休刊に追い込まれた。今でもその時の心残りを思い出すほどである。

勝又 浩

  国立西洋美術館で「ヴィルへルム・ハンマースホイ展」を観てきた。没後百年くらいになる人だそうだが、これまでまるで知らなかった画家で、こんな人がいたのか、どうして今まで話題にならなかったのだろうか等々、驚きとともに強い刺激を受けながらの時間を過ごした。
 その絵は、ほとんどが広くもないアパートの部屋を、角度を変え、あるいは家具をちょっと置き変えて、とっかえひっかえ描いているのだが、面白いのは、そこには必ず部屋の白い扉が描かれ、開かれているときはその奥の部屋と、その部屋の、閉じたり半開きになった扉がさらに見えているという光景である。そしてたまに、黒いワンピース姿の夫人らしい女性が描かれることもあるが、それがきまって後姿なのだ。窓からの陽射しが描かれることがあっても、それは決して黒い影をつくるほど強くはない。とにかく、みな、不思議に静かな世界で、これはあの世の光景ではないのかと思ったりした。
 そうしたなかに数点、アパートの中庭を描いたものや、港に船腹を寄せ合って停泊する船の絵などもあって、私に段々理解できたことは、この画家が、つまりは自分の国、デンマークの空気を描いているのだということだった。ターナーが霧や雨や吹雪、そしてそういう空や雲を描いたが、あれとは違う。広重が人間も含めて日本の湿潤な風土を描いたが、それとも違う。ただただ自分の部屋の中だけを描き続けて、彼は祖国の空気というものを表現してしまったのだ。人々はおそらく、彼に描かれてみて初めて、改めて自分の住んでいる国の空気というものを理解し、自覚することになったのではないだろうか。
 私は、日本にこういう画家がいただろうかと思い、こういう作家がいただろうかと考えてしまった。

松本 徹

 没後四十年記念として開かれた「レオナール・フジタ展」(上野の森美術館)は、修復された大画面の「闘争」が話題になったが、数年前に国立近代美術館の藤田嗣治展で見た宗教画が忘れられず、出掛けた。
 今回は最晩年に力を注いだ聖母礼拝堂のフレスコ画やステンドグラス、その下絵などが数多く展示され、模型、映像もあって、そのおおよそがよく分かった。藤田はカトリック信徒として行き着くべきところへ行き着いて、生涯を終えたのだ。
 それとともに、そこへ至る道筋を示すものとして、聖母に向かって膝まづいて礼拝する、ルネッサンス期の一形式そのまま、顔だけを藤田自身と妻のものとした絵、ボッテチェリの「春」に似通った三人の美女の立ち姿を描いた「花の洗礼」が、こちらの胸に素直に通って来た。
 そして、「キリスト降誕」「磔刑」「十字架降下」が圧倒的であった。
 いずれもヨーロッパの巨匠たちが繰り返し描いてきたもので、ある意味ではそれらをなぞっていると見ることもできそうである。それでいて、藤田の作品以外のなにものでもない。多分、二十世紀において、ヨーロッパの画家たちがもはや描くことのできない画題を、日本からやって来た藤田だからこそ、真正面から取り組み、麗しい色彩と柔軟強靭な筆力でもって描き、傑作としたのであろう。
 敗戦後のわが国の画壇から袋叩きにされるような目にあわされ、母国を棄てたから、と言えそうである。もっとも藤田は、棄てたのではなく棄てられたのだ、と言っている。そうであればなおさら、こういうところへ行くよりほかなかったのかもしれない。そして、これらの絵と戦争画の傑作「アッツ島玉砕」は根底で通じ合っているのではないか。

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