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季刊文科編集委員によるコラム「砦」を一挙公開。

季刊文科52号 砦

松本道介

 八十年近くも生きていると、さまざまなところにさまざまな関わりを生んでいるらしく、毎日色々な本、色々な雑誌が送られてくる。東大出版会のUPなる雑誌もその一冊であり、毎年四月号に〈東大教師が新入生にすすめる本〉という特集があってついつい目が行ってしまう。
 読むのはむろん哲学とか文学とかの分野であるが、毎年これを見るうちになにやら暗い気分に襲われる。東大という大学につとめる先生の質が年ごとに落ちていくのを感じるからだ。
 例えば今年は、教養学部の準教授なる肩書の教師がカントの「啓蒙とは何か」という本を薦めている。この表題の答はいとも簡単、「自分の理性を使う勇気を持て」というだけのことだが、私はこの本を何度読んでもいかなる価値があるのかさっぱりわからない。理性とは何かと問い返せば、理性については厚い本を書いたから読んでくれとカントが答えるだけの堂々めぐりだ。
 当時のフランス人を見よ。「伯爵は財産に地位に身分をそろえて威張り放題だけど、そんな果報にあずかるために何の功績があったと言うんだ。生まれてきただけじゃないか」(ボーマルシェ「フィガロの結婚」)と言う独白を民衆はよくよく理解し腹をかかえて笑っていた。フランスには真の啓蒙が行き渡っていたから、啓蒙などという言葉も観念もまったく必要としなかったのだ。
 私は学問は広くやれと言うことにしている。深くやるともぐら同然に暗い場所に迷いこむからである。とは言え私のような老人が言ったところで見向きもしてもらえない。しからば二五〇〇年を経てみずみずしい孔子の言葉をかかげて置こう。〈学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し〉と孔子は言っている。

勝又 浩

 今度の震災ニュースのさまざまな映像のなかでは浦安市に激しかった「液状化現象」というのが脅威の一つだった。新しくできたお洒落な街の歩道や公園のあちこちからヘドロのような泥水が噴出していた。そして見るみる地面が沈み歪んで建物や電信柱が傾いてゆく。噴出した泥水(「噴砂」と言うらしいが)は駐車場をプールのようにしてしまい、駐めてあった車が半身をコンクリートで固められたように見えた。もとより地震も津波も怖いけれど、この液状化現象というのにはそれとは違った不気味さがあった。何よりも、それが人間の作ったものに結果するというところがなんとも空恐ろしい。
 こんな感じを抱えながら毎日のニュースを見ているうちに、今度の原発事故なども、つまりは液状化現象の一つだという確信が強くなった。地震の規模や津波の大きさが想定を超えていたというが、それならば震度一〇、一一、津波の高さ三、四〇メートルを想定してあればよかったのか。決してそんな次元の問題ではあるまい。たとえ震度一五や津波一〇〇メートルに備えたとしても、一度異変あれば、自然はそんなものを簡単に超えてしまうだろう。第一に、仮に地震には万全であったとしても、何時隕石が落ちてくるとも限らない。自然の力を前に人間の作ったものの「安全神話」などありえないのだ。
 ところでこんな液状化現象は人工物だけではなく人間の心にも起っているのではないか、それが次の恐怖である。オウム事件やサカキバラ少年や最近のアキバ事件などを思い出すが、昭和の終わりあたりから次々に現れた奇怪な事件、あれらは文明社会での人間の心の液状化現象ではないのか。そして、そんな現象は、実は文学の方面でも既に現れているのではないか。液状化文学論、作家論を考えなくてはならぬようだ。

松本 徹

  東北の避難所にもテレビが設置され、野球が見られるようになったとのニュースに、ほっとした思いをしているが、そういう場所で見るのに最もふさわしいのは、相撲だろう。大地の震えがやまないいまこそ、それを踏み締め踏み締め、裸の大男たちがぶつかり合い、力と技を競い、汗と土に濡れる姿を、わたしなどは見たい、と思う。
 なにしろわが国の風土と歴史に根差した、生命を奮い立たせる競技である。
 ところがどうもそうは簡単にいかないらしい。いろいろ理由があるようだが、最大の障害は相撲に対する無理解である。もろもろのスポーツと同一視して、勝手な要求を突き付け、断罪している。
 相撲は、「古事記」などの記述はともかく、奈良時代、朝廷の節会で行われたのを初めとして、全国各地の祭礼で行われて来ているのだ。
 四股を踏むことひとつにしても、大地の邪悪な霊を鎮めるためであり、春は、大地の霊を呼び覚まし、豊作を約束させる働きがある、とされている。
 そのように呪術的で、それだけ始原的な意味合いを持つのである。
 加えて、神事からは伝統的な芸能が生まれており、相撲も例外ではなく、芸能としての側面を持つ。
 だから、取り組みは真剣勝負しか認めないなどということはあり得ない。浄瑠璃や歌舞伎の「双蝶々曲輪日記」の濡髪と放駒の駆け引きに見られるように、勝負にはさまざまなアヤがなくてはならない。人間がすることは、本来、そういうものだろう。
 そうした微妙で豊かな含みを持つ領域に、今日のスポーツ観に基づく透明性を旗印に、無遠慮に踏み込んでもよいものかどうか。肝心ななにかを損なうことにしかなるまい。

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