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季刊文科
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季刊文科編集委員によるコラム「砦」を一挙公開。

季刊文科53号 砦

松本道介

 今号の「視点」には〈転機への予感〉という題で原発事故のことを書いた。原子力発電については何も知らなかったから、すべて小出裕章氏の「原発のウソ」という本のお世話になった。
 放射能で汚染されたゴミの問題は深刻になるばかりだから、これを解消する唯一の方法は”放射能の墓場”を造るしかないと、小出氏は書く。
 場所としては福島第一原発周辺であり、恐れずに現実を直視すれば、将来にわたって無人地帯とせざるをえない。
 〈大変言いにくいことですが、おそらく周辺住民の皆さんは元には戻れないでしょう。
 むしろすぐ戻れるような期待を抱かせる方が残酷です〉とも小出氏は書いている。
 ところが、昨日(七月十九日)の政府発表だと、半径二十キロ圏内の放射性物質放出量は三月十五日にくらべ二百万分の一に減少したので、八月中にも緊急避難準備区域の解除に向けて自治体との協議に入りたい考えだという。
 最初に読んだときはびっくりした。チェルノブイリとはあまりに違うと思った。
 一方では福島県から出荷された肉牛から暫定規制値を超える放射性セシウムが各地で検出されて騒がれるなかで、福島第一原発の二十?三十キロ圏は着々と片付き、まるで住民が次々と戻って行けるような印象を与えるではないか。
 しかし、これが日本政府のやり方なのだ。原発の近くに住んでいた住民に対して、もう戻れないなどとは言えない。また東京電力と政府がこしらえた行程表にしたがって作業を進める人たちの志気にもかかわるに違いない。
 チェルノブイリの事故が起きた当時のソ連政府なら人民に何でも言い渡せたろうが、いまの日本政府には言えない。周辺住民の側こそ最早戻れないことをよくよく知っているに違いないのである。

大河内昭爾

 「昭和三十年代から五十年代にかけて『風景』という雑誌がありました。舟橋聖一氏をかこむキアラの会が編集を担当し、紀伊国屋書店の田辺茂一氏を発行人に、野口富士男、八木義徳、吉行淳之介といった人たちが編集人に名をつらねていました。文学が文学として純粋に存在し、まだ輝いていた頃のことです。その昔をなつかしみ、またその純粋な存在を支持し、語りついでいきたいと念願して、さらに新鮮な文学の母胎ともなるべく『風景』にかわってここに『季刊文科』を創刊いたします。」
 「季刊文科」創刊号の編集後記にこのような文章をかかげたのは、今から十五年前になる平成八年の七月(二十七日)のことである。当時六十八歳だった私も八十三歳。今この文章を眺めてどう思うかと尋ねられて、よくぞここまで続いたなあという感慨を覚える。
 なぜここまで続いたかといえば、編集の主体となる四人が「文學界」同人雑誌評を担当しており、毎月二回集まっていたからである。集まるのは同人雑誌評のためであるが、そのままおのずと「季刊文科」の編集会議になっていった。
 その頃、姪が井の頭線池ノ上の駅前に「壷庵」(私の命名)という小料理の店を開いたので、ここを同人雑誌の会議、「季刊文科」の編集、対談や鼎談の場に使うのも重宝だった。
 純文学宣言などという標語も、最初は我々四人にとって気恥ずかしいものだった。チラシを作る人が先走って付けたらしいが、我々は同人雑誌と純文学を結び付けて考えたことはなかったが、それは当時の前提条件だったからだ。
 しかし今考えてみると「季刊文科」も同人雑誌であり、同人雑誌はそのまま純文学につながるのだと思っている。

勝又 浩

 明日のことは分らない、そいう意味で、若者も老人も変わりはない、ただ、老人は過去が長いだけだ、とある人が言って、旨い事を言うものだと思った。もう一〇年も前になるだろうか。私も人並みに老いを意識して、少しデスペレートになっていた頃だ。以来時々思い出しては自分に言い聞かせ、人にも言ってきた。
 しかし最近ひょいと気がついたのだが、このことばは正しいとしても真実の半分しか言ってない。明日のことは分らない、それは正しい。しかしその分らない明日に、若者は希望や夢を託しているが、老人にはそれがないということだ。
 確かに老人には長い過去という財産がある。それは使い方によっては大いに役に立つ。しかし"こんなふうに"世の中が激しく変化しているとき、その過去はしばしば役に立たない、どころか反って邪魔になることさえある。一方、若者は過去という荷物がない分だけ、将来に対する夢や希望をたくさん持っている。というより、夢や希望、不確定な将来に託す以外に彼の存在する場所はないようなものだ。
 考えてみると、私自身、その十代二十代三十代、無知で貧しくて不自由なことだらけだった。そのくせ元気で生意気で恐れを知らなかった。それはひたすら明日があったからだ。若者の明日とは、可能性なんてものではない。必ず現在より良きものなのだ。また、そうでなければ今が惨めで堪らないのだ。
 そしてこれは、私個人のことばかりではない、私の時代の性格でもあったなと、今思う。敗戦の後の飢えと貧困の中で、人々は明日だけを頼りに生きていたのだ。「生きよ、堕ちよ」(坂口安吾)の裏には、確実に明日があったのだ。
 ところで今、三・一一の後、そんな明日はあるのだろうか。

松本 徹

  昭和二十八年(一九五三)は、どういう年だったのだろうと、気になっていたところ、新橋演舞場の客席でプログラムを捲っていて、大仏次郎作「江戸の夕映」がその年の三月、歌舞伎座で初演されたのを知った。今回は、それ以来八回目の上演で、海老蔵の復帰にふさわしいとして取り上げられたらしい。
 わたしは初見であったが、感慨深く見た。ただし、脚本としては隙間だらけ、不出来と言うほかない。それに拘わらず感慨を覚えたのは、幕府の最後と先の大戦の敗戦前後の若者の姿が、多分、作者の意図どおり重なって見えたからである。
 海老蔵演じる旗本の若者は、許婚者の手を振り切り、江戸を占領した官軍の目を盗んで沖に停泊する榎本武揚の軍艦に乗り組もうと必死になる。そして、首尾よく乗船、函館へ走ったものの、敗戦、舞い戻って来たが、許婚者の許に帰れずに呑んだくれている。
 これは特攻志願して戦地に赴いたものの、復員して来た特攻崩れそのままである。わたしが大学へ入学した頃(昭和二十七年)、この特攻崩れといったような者たちがいたのを覚えている。
 作者大仏の前にもこういう若者たちがいて、ある思いを覚えたところからこの作品となったのだろう。それが対日平和条約発効の翌年だったのだが、ここまで待たなくてはならなかったのだろうか。
 この年には、いわゆる戦後派の活動が一段落、第三の新人たちが登場して来た。しかし、いずれもこの特攻崩れの心情を掬い取ることがなかったようだ。その点「江戸の夕映」は、とにかく取り上げている。が、くやしいことにひどく情緒的図式的だ。
 復帰した海老蔵の舞台としては、「春興鏡獅子」がその若獅子ぶりを遺憾なく発揮、安堵させた。

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