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書評
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『八王子だるまの作者 井上竹次郎伝』本木達也 著
週刊読書人 平成26年(2014年)1月24日 

逝きし世の面影
かつての日本人の姿・生き方を描く一代記
評者・安宅夏夫(詩人)

 本著は、日露戦争で砲兵として戦うも負傷して九死に一生を得て帰還後、生い育った八王子で達磨製作に取り組んだ井上竹次郎の一代記だ。大冊だけに主人公の家族・親族の姿も活写されていて、薬学の道に進んだ次女判子と著名なクリスチャン綿谷礼利(後に京都大学舎監)との出会い。第二次大戦の終戦時にドイツ東北地方のヴリーツェンに赴いて、同市の伝染病治療に尽くし、現地で死亡、平成12年に同市役所前に顕彰碑が建立されている肥沼信次のことなど、感動する。
 主人公竹次郎が体験した日露戦争も巨細に描くが、「前線将兵の四分の一が脚気になり、歩行困難・息切れ・むくみなどを呈した。日本兵の突撃は酒に酔っているようだった」という記録が引かれ、かつ著者が参考資料に使用した(日露戦争の十年前の)日清戦争の際の東京予備病院業務報告に「此日より第一分院(外桜田町)の患者は脚気予防として麦飯(米七分、麦三分)を給す」という記載を見出して、日露戦争で脚気の治療が議論になる十年前に、既に陸軍軍医の一部に「麦飯による脚気治療」の知識があったことを示している、とチェックする。これは両戦争の際の軍医部長森林太郎(鴎外)の責任だと糺されていることに関わるが、鴎外と同窓の著者ならではの、責重な発見だと思う。
 さて、新春の達磨市は多摩地方の特徴的な正月行事だ。ここで商われている達磨は多摩達磨と呼ばれているもので、元高崎の豊岡達磨を模倣することから始まり、旧東京市域の達磨とは達う様式のものだ。この多摩達磨を今日見る姿・形に仕上げたのが井上竹次郎である。最初八王子に複数いた同業者が減り、昭和の始めには竹次郎だけになった。竹次郎は明治39年(1906)から製造を始めて、独自の工夫をし製作を続けたので、「八王子達磨」と呼ばれて評判になった。
 「八王子達磨」は、すべて関東特有の「目無し達磨」だが、多摩独特の目隠し、ヒゲ様が知られる。ヒゲ様は眉やひげの部分に黒毛白毛を植えたもので、竹次郎は全体に金泥を塗った金達磨に羊の白毛のヒゲ様を八王子と深大寺の市に限定して出した。
 竹次郎は、達磨の他に、招き猫・福助・恵比須大黒などの張子人形、お面様の熊手・扇福、また、わかめ・狐・ひょっとこなどの面、万燈車など、次々に多種類の縁起物に手を広げ、大正の始め(1912)から昭和十年ごろにかけてが全盛時代だった。しかし跡継ぎとして成長を楽しみにしていた息子に先立たれたのが衝撃だった。早々に隠棲し肥沼梅三郎・安五郎など親しい親族を訪ねたりしていたが、前記した「肥沼信次がドイツで行方不明」という、オーストリアに避難した駐ドイツ日本大使館から家族への通知に驚いたりした。
 竹次郎は、長年の生活の呼吸を互いに知り尽くした妻マツが急逝すると、翌年(昭和28)、満78歳で世を去った。「逝きし世の面影」と言うが、評者は竹次郎に、かつての典型的な日本人の姿・生き方の一つを見て、同種の感慨を抱いた。

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