文藝・学術出版鳥影社

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書評
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『自我と仮象 第Ⅲ部』森和朗 著
ぺるそーな 9 平成19年(2007年)8月25日

出世したければ本を読め(81ページ)

 本書に3部作の終わりである「あとがき」がついているが、その中に「老いた脚で登りきれるかどうか自信がなかったが、ここまで来たからにはもう引き返すわけにはいかない。山肌にへばりつくようにして一歩一歩登りつめていくと、遠くからは単独峰のように見えていたのに、それが3つの嶺からなっていることが分かった」とある。その3つとは、第1部「自我」、第2部「仮象」、第3部「仮体」であろう。そして本書の“帯”にいわく、「仮体帝国アメリカの没落を事実と論理によって検証する。3部作、ここに完結」と。
 新しい造語「仮体」とは何か。16世紀オランダで「センペル・アウグストス」という一個のチューリップの球根に「3000ギルダー」という値がついた。3000ギルダーを品物に変えるとこうなる、とういうことが本書に出てくる。「肥えた豚八頭、雄牛四頭、羊一二頭、ライ麦四八トン、バター二トン、ワイン大樽二つ、ビール四樽、ベット一式、船一艘」が「実体ではなく仮体の重さ」としてなら一個のチューリップの球根の値段に均衡する。
 ついでに「自我」と「仮象」という言葉の説明も。本書には最後に「総観としての結論」と題した章もあり、その中に次のような文章がある。
 「最後のどたん場まできて、日本の現状をふり返ってみると、そのにはすらっと格好よさそうな自我が、いかにも心細なげに佇んでいる。太平洋戦争の敗北後に不戦を国是とした日本で、自我の主戦場になったのは企業組織であった。そこでは優越をめぐって自我たちは闘ったが、そのエネルギーのほとんどは生産の改良や効率化という物化に注ぎ込まれたために、自我が表立って対立することはあまりなかった。それだけ対立は陰湿になったともいえるが、ととえ敗者になっても給与や昇進にいくらか差がつけられる程度で、決定的な制裁は加えられなかったから、組織の中ではまずまずの平和と協調が保たれた。このような平和と協調がとりわけ教条化されたのが、教育とマスメディアの世界であった。そこでは自我の自己中心的な主張や衝突は忌避されて、なにがなんでもみんなが仲良く、平穏無事に過ごさなければならなかった。といっても、個人や集団間の自我の攻撃や角逐がなくなるわけではないから、それはいじめという陰湿を通り越して隠靡なものになったのである。
 いじめはいまや国際的なものになっているが、このいじめを善の皮膜で包んだものが私のいう『倫理仮象』なのである。それは絶対的な正義が結晶したものであるから、何ものも容赦しない。どんなに些細な失言も誤魔化しも逸脱もみだらな振舞いも、いわんや法律やルールに違反でもしようものなら、袋叩きにされるか切って捨てられる。きのうまでの権勢はどこへやら、極悪人にされた人たちはテレビで深々とお辞儀をして、すごすごと引き下がらざるをえない。いじめと言うと外聞がわるいが、この倫理仮象によって裁くというのは正義の行使である。そうすることは快感ですらあるからみんなが寄ってたかって倫理仮象に自己投機すれば、それがますます膨らんで無敵になり、神聖不可侵なものになるのは必定。(中略)こんなに倫理仮象がのさばっていたら、誰も自己中心的な自我を主張することができずに頬かぶりすることになるが、子供のころから自我の対立や衝突を回避してばかりいれば、いやでも自我は萎縮して発育不良になる。」
 そして、この章の最後にヘラクレイトスの言葉を著者はひく。それはこうだ。
 「富から諸君が見捨てられることのないように祈るよ。エペソスの諸君。つまり、自分たちがやくざな人間だということを、それで思い知ることにもなるだろうからね。」

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