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書評
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『ロマネスクの透明度─近・現代作家論集』高橋英夫 著
奈良新聞 読書BOOKS 平成18年(2006年)7月23日

詩的な独自性で語る作家論

 論じられた作家が22人、二葉亭四迷から吉田健一まで、近・現代の作家が取り扱われているが、いずれも詩的な切り込みがしんせんである。編中、異色なのは最後に据えられてる吉田健一論で、その文体の特異性はもとより、およそ小説らしからぬ小説のスタイルを解読して重厚性を示している。就中(なかんずく)「ヨーロッパの世紀末」「ヨーロッパの人間」はもちろんのこと、「瓦礫の中」「絵空ごと」など、他の作家には書けないこれらの諸作品についての論述は断然群を抜いている。(後略)

『ロマネスクの透明度─近・現代作家論集』高橋英夫 著
東京新聞 平成18年(2006年)7月16日

 白洲正子の『西行』を新作能だと述べる評論を巻頭に、近・現代の二十三人の作家たちを論じた文芸評論集。生の形を「崩れ」とうったえた幸田文論、小さな存在の小さな生命を言葉にすくいあげた小泉八雲論などは実に魅力的だ。表題ともなった島村利正について触れた文章や、川端康成への追悼文も心に残る。作品や作家に迫る秀逸な文章のリズムが、音楽を聴いているようである。

『ロマネスクの透明度─近・現代作家論集』高橋英夫 著
図書新聞 平成18年(2006年)7月15日

作者名から作家という人間を回復
読者をひとりの人間として文学作品を読む場所へと連れ出す力をもつ 田中和生

作家について考えつめたエッセンスがみなぎる

 二十二人の作家についての、長さは四百字詰めで言うと十枚に満たないものからせいぜい三十枚ほどの、二十三の文章があつめられた作家論集である。それぞれが短いので気軽に読むことができるのだが、どの文章にも著者がひとりの作家について考えつめたエッセンスがみなぎっていて、一つ読むたびにその作家の著書を引っぱり出したくなったり、あまり読んでなかった作家について大事なことを教えられて考え込んだり、自分の考えが補強されてぜんぜん関係のない本が読みたくなったりして、わたしもあれこれ楽しみながら時間をかけて読み終えた。実にぜいたくな本である。
 小説というジャンルについて、ここ数十年、長篇ばかりが注目されるようになったせいで、短篇小説の技術がすっかり失われてしまったというのはよく聞く話である。わたしはおなじようなことが、文芸評論というジャンルについても言えるのではないかと思う。というのは、大きな問題をあつかった長篇評論や一冊まるごとある作家を取りあげた作家論ばかりが刊行されて、短くて内容のある作家論はあまり書かれなくなったし、単行本のかたちでお目にかかることはほとんどなくなってしまった。少なくとも本書のような喜びをあたえてくれる作家論を書くことのできる人は、時代が下るにつれて確実にいなくなっている。
 著者は「あとがき」で言う。
≪作家論集を出すのは暫くぶりである。十年近く、こうした内容の本をつくることができなかった。さまざまな機会に書いてきた作家論がずいぶん溜まって、堆くなっていた。それについては出版界の現況や読者の環境が、前とは様変わりしてしまったことが、一因として挙げられよう。作家論というジャンル自体がいまは古びてしまったのだ、こんな声もその中に混ざって聞える。
 しかし文芸評論にとって、作家論を書くことはまず基本的、基礎的な頭脳と指の訓練を意味しており、それと同時にこの仕事こそ文芸評論の一番中核的な部分を築いてゆくことでもある。この点は以前も今日も変らない筈だと私は思っている。≫
 わたしは、けっして声高ではないが強い意志の込められた、「この仕事こそ文芸評論の一番中核的な部分を築いてゆく」という言葉に打たれる。あるいは現在、ジャンルとしての文芸評論が不振なのは、その「一番中核的な部分」がないがしろにされているからかもしれない。そしてそれは、「出版界の現況や読者の環境が、前とは様変わりしてしまった」原因の一つであるだろう。(後略)
(文芸批評)

『ロマネスクの透明度─近・現代作家論集』高橋英夫 著
毎日新聞 本と出会う─批評と紹介 平成18年(2006年)6月25日

当たりはやわらかく、切り口鋭く

 解説、と呼ばれる文章の形態がある。長文の批評や、短い書評のあいだに位置しているもののひとつだが、便宜上そう呼ばれているだけで、実際には、小説や詩以外の、すべての散文の要素が入り込んでくる、きわめて敷居の高い領域だ。読者にわかりやすく説明するためだけにではなく、枚数制限や媒体の特徴を意識した書法の選択など、さまざまな拘束を引き受けながら、なお自然な流れを保って書き手の立場を明確にしなければならない。
(中略)ところが、いつの頃からか、この種の仕事に対する世間の目が冷たくなってきた。かりに書物にまとめられても、書き散らした短い文章をただ集めただけといった、どこか棘のある言い方をされることも少なくない。そういうきびしい状況のなか、高橋英夫は「近・現代作家論集」の副題を持つ新著のあとがきで、自らに言い聞かせるかのように、静かな口調でこう宣言する。
 「しかし文芸評論にとって、作家論を書くことはまず基本的、基礎的な頭脳と指の訓練を意味しており、それと同時にこの仕事こそ文芸評論の一番中核的な部分を築いてゆくことでもある。この点は以前も今日も変らない筈だと私は思っている」
 まさしくその通りだろう。ただし「基本的、基礎的」というのは控えめな表現である。なぜならここでは、基礎的な思考訓練がそのまま独立した鑑賞に耐える芸文として成り立つように仕上げられているからだ。扱われる作家は、総勢二十二人。うち五人が女性の書き手となっている。どれもこれも、当たりはやわらかく、切り口は鋭い。
(中略)あるいはまた、徳田秋聲を語る段で、「哲学の欠如」だの「無思想」だのという非難を泰然とやり過ごしていた秋聲が、戦中の言論統制のまえに筆を折るまでを簡素に追ってから、「いささか逆説ふうにいえば、『哲学』には屈せず、時代に屈したところに、秋聲の秘められた真骨頂がある、と見たい」と、常套の裏側からの読みを提示する。こうした一節が、随所に挿入されることで、小綺麗にまとまってしまう危険が回避され、細部をダイナミックに読むたのしさが保たれるのだ。
 さらにはまた、吉田健一を語るにあたり、その導入部として『金沢』全編を正字旧仮名で原稿用紙に筆写したら、三百枚の最後の一マスでぴたりと収まった、という生々しいエピソードを冒頭に置くことで、手触りのある「時間」のたゆたいへ読者を誘う。
 書名は島村利正を論じた一編から採られているが、「ロマネスクの透明度」とは、作家の側だけではなく、読み手の眼の、幾重にも光の重なった透明度でもあることを肝に銘じておこう。一九七二年、川端康成の自死の直後に書かれた一文は、この小説家の不吉な核に手を触れながらも、ことに高い透明度を獲得して忘れがたい。

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