文藝・学術出版鳥影社

本のご注文(送料無料)はこちら
書評
HOME>書評 戻る 2 1 次へ

『飛べ!愛の択捉』露久保孝一 著
産経新聞 読書欄 平成23年(2011年)12月11日

 択捉って、どんな島? ソ連に奪われるまで、美しい自然の中で、豊富な魚介、海獣類と日本人だけが住んでいた北方領土の最北端の地。そこで島民がどのような喜びと怒りの生活を送ったか、という激動の歴史をドラマで描いている。
 70年前の11月下旬、真珠湾攻撃に向かう連合艦隊が集結。島は騒然となるが国民学校の生徒たちは面白がる。主人公の少年は馬乗りの天才。少女を乗せて原野を疾走し、ヒグマに襲われる。馬は逃げず犠牲になり2人を助けた。敗戦後、ソ連軍に占領され、暗黒の生活へ。裸踊りをさせられる外国人女性が基地にいて、少年は女性を島外へ逃そうと奮闘する。領土返還への思いを込めて読みたい本。

『干支繚乱/佐用姫物語』白石すみほ 著
日本経済新聞 この一冊 平成23年(2011年)11月19日

 現在の佐賀県唐津市には「万葉集」の昔から豪族の娘、松浦佐用姫の伝説が残る。朝鮮半島での戦いに出向く途中に唐津を訪れた青年武将の大伴狭手彦との短期間の悲恋物語だ。この小品集では佐用を霊力を備えた神子に設定し、心を寄せるイサという青年を登場させている。
 都会のエリートと純朴な幼なじみの間で心揺れる村娘として佐用を描写。「現代に通じる女性の情念とともに、ほかの13の短編にもちりばめた玄界灘の美しい風景を感じてほしい」とは著者の弁だ。

『天井桟敷の父へ』香山 マリエ 著
新潟日報 文化面 平成23年(2011年)10月3日

「末松正樹の時代展」に寄せて 評者・大倉 宏(美術評論家)

(前略)今春刊行された香山マリエ「天井桟敷の父へ」(鳥影社)では、酒に飲まれたり、生母のずるさを正視できないダメな人としての末松が、肉親の目で見つめられていた。そんな等身大の「人」が見えてくるとともに、私はその絵が、前より素直に、まっすぐ見られるようになってきた。抽象絵画という姿の、一人の人の自画像に見えてきたのである。(後略)

『城門を潜って』斎藤 秀夫 著
米沢日報 書評欄 平成23年(2011年)9月11日

 著者は山梨県甲府市生まれ。これまで全国の城を巡ってその城にまつわる歴史と人についての本を刊行されている。本書では、岡崎城、小谷城などのほかに、東北では猪苗代城、関ヶ原の戦い以降、伊達政宗の右腕片倉小十郎の城となった白石城について触れている。
 斎藤氏の著書は、現地に足を運び、見て、聞いて、感じる旅をもとにしたエッセー風の文体である。旅日記のような気軽さで読め、読んでいるうちに自然と歴史を学ぶことになる。
 米沢を拠点にしていた伊達政宗が、いかに東北の覇者になっていくかが、手にとるように描かれている。図や写真を多用し、戦さの場面のリアリティーをいやがうえにも増幅している。
 白石城は関ヶ原の戦いの前の慶長5年(1600)7月、上杉景勝の武将、甘糟景継が城を預かっていたが会津に出向いている間、伊達の手に落ちた。片倉小十郎は、置賜郡下長井の荘宮村(山形県長井市)か、あるいは上小松東塩沢片倉館で生まれた置賜人。その出生について論争は続く。

『評伝・高見順』坂本 満津夫 著
中日新聞 大波小波 平成23年(2011年)8月9日

“耽溺”の産物としての評伝 評者・泡鳴系

 『高見順論─魂の粉飾決算』以来、四冊もの高見順論を世に問うてきた坂本満津夫が、新たに『評伝・高見順』(鳥影社)を出した。恐るべき傾倒ぶりだが、その方法は、構造主義風の知的分析などとは逆の(著書の私的挿話も散見される)いわば体当たり的なもの。自ら「研究」ではなく「耽溺」と称するように、大いに情念的であり、当節めずらしく血の通った、人間的な評伝といえよう。
 高見順に五十年余を入れあげたというだけに、本書の裏に時代の〈悪〉への激しい抵抗をひそめた特性、あるいは風俗小説であると同時にアンチ・ロマンにも通じる先駆性を示していたことなど、勘どころを確実にとらえている。しかし『いやな感じ』その他で一世を風靡した高見順が、なぜ今日読まれなくなったのか、との鋭い問いも、そこにさし出されている。
 有名な高見のエッセイ「描写のうしろに寝ていられない」にかこつければ、結局巧みな技法で「時代と寝た」作家の〈意識回路〉の自己復讐ということか。それを坂本は「時代に毒された文学」と見る。いずれにしろよく核心を突いた、まれなる“耽溺”の産物に違いない。

『評伝・高見順』坂本 満津夫 著
世界日報 読書欄 平成23年(2011年)7月24日

研究ではなく耽溺の五十余年 評者・増子耕一

 評者は高見順の熱烈な愛読者で、50年余かけて高見順全集20巻、高見日記全8巻9冊、続・高見日記8巻を読み解いてきたそうだ。本書は、5冊目の高見順論であるが、読めば読むほど疑問が湧いてきて、迷路に迷い込み、書いても書いても、終わりがないという。つまり著者の読み方は「研究」ではなく、「耽溺」なのだそうだ。
 本書は、「私生児」から始まって「いやな感じ」に至る小説類を題材に、時代順に、年譜や日記や年表を参照しながら、作品を味読し、作者の境涯と心の奥底をさぐった評伝である。
 「小説とは、根も葉もある嘘八百」と心得て、虚実の間を探っていくのだが、ふと吐露するのは、著者が高見の小説におぼれた理由だ。「あッ、俺とそっくりだ」と、作中人物に対して思うことが多いらしい。
 床屋に行って40銭のところ50銭銀貨を出して釣りを受け取らないで帰る。これは虚栄心からで、内心では10銭損したと思っている。「故旧忘れ得べき」に出てくる小関のふるまいだが、著者にも類似の体験があるという。
 ところで、この5冊目の著書で考えようとしたのは、戦前の昭和史であり、その時代である。高見順は昭和10年代にスター文士であり、20年代にも30年代にも上昇気流に乗った。
 しかしそれは暗く陰気な時代だった。多くの傷痕を人々と社会に残した。高見順は一高から東大、そして外資会社に就職したが、左翼思想に下降し、昭和8年検挙されて、挫折する。その原点にあったのは、“私生児”という生まれる前からの屈辱。
 その昭和8年、釈放直後、心の内に浮かんだことを筆に出す「芸」の修業を決意する。その若い感性が傷痕を抱いて、街や思潮に毒された人間の風俗として、内面から描いた。
 著者は、高見順の向きあった時代に、ある種の郷愁を覚えているのであろう。迷路に迷い込むのも、作品が心を刺激するからだ。

『評伝・高見順』坂本 満津夫 著
日刊県民福井 平成23年(2011年)7月8日

「日本海作家」同人 福井の坂本さん 評論「評伝・高見順」を発刊 生い立ちから最期まで7章で構成

(前略)新刊では、序章「『私生児』から『私生児』への技巧の苦悩」から、終章の「昭和40年8月17日の昼・未完の酷暑」まで七章に分け、生い立ち、デビュー、少年時代、活発な活動期、そして闘病の中で執筆を続けながらも惜しまれて亡くなるまでを、高見の残した作品から探った。
 坂本さんが高見文学と出合ったのは、1957(昭和32)年に発表された「ひと日わが心の郊外に」を読んで。それから高見作品をほとんど読んだという。
 坂本さんは、高見の姿を遠くから見たことはあるが面識は得られなかったと話す。しかし、高見の死後、秋子夫人とは亡くなるまで親交があったことは知られており、秋子夫人の話からも坂本さん高見文学の“原点”を探り続けてきたことがうかがわれる。
 貴族院議員で、東京都知事も務めた坂本釤之助の子として生まれながら認知されずに二十五年を過ごした出生の傷、プロレタリア文学を目指しながら転向せざるを得なかった文学者としての傷など、高見の感傷をたどる。
 坂本さん自身が「高見順の文学と人生は、昭和戦前の昭和史であり、昭和文学そのものである」と書いていることから、高見順とその昭和文学への敬意が読み取れる。

『親からのDNAで人生は決まるのか?』小林 一久 著
文化連情報 自著を語る 平成23年(2011年)7月号

努力、訓練によって遺伝子を凌駕する

 今回、人生における様々な出来事や社会に起こる現象について、遺伝子と後天的要素がどのように関係しあってそれを出現させているかを、自らの体験も込めて、医学的、社会学的に考察してみた。
 東大附属中学の一卵性双生児を対象にしたデータでは、中学生、高校生の男女とも一卵性双生児の身長と体重は一致し、50メートル競走やボール投げ等の成績も一致しており、体格や運動能力は素質が関与する度合いが大きいことが分かっている。学科の成績をみると理科と社会に遺伝の影響が強く現れ、国語と数学の成績には遺伝の影響がほとんどみられなかったとのことで、体格や走る、投げるなどの能力は遺伝の影響を強く受けるが、学科では、理科と社会以外はあまりその影響はなく、学習能力に関しては遺伝よりも努力の影響の方が大きいことが実証されている。
 性格は多因子遺伝で複雑な形質が様々に組みこまれているので兄弟姉妹でも似ていないことが多く、さらにその後の生育環境で様々に変わってくる。親の性格をそのまま受け継ぐことはまれで、本人の意思と努力で様々に形成される。
 『利己的な遺伝子』の著書ドーキンス氏は、遺伝子は動植物の体を乗り移りながら何万年も生き続けてきて今後も生き続けるので、生命は永遠に続くと述べているが、公害等の環境の変化でその遺伝子の伝達が途切れたり不完全になるとその種が途絶えたり、変異したりする。遺伝子の本体DNAで細胞核内に存在し、肉眼では見えない極めて小さなものだが、蛋白を作る設計図を作りそれをコピーして細胞内のリボゾームに渡して蛋白や組織が作られている。ほとんど自動的に上記のシステムは作動しており、行動生物学者のドーキンス氏は、遺伝子は利己的で自分の利益のため、自分が生き残るためなら親兄弟、夫婦をも蹴落として生き続けようとするものだと述べている。
 遺伝子側からすれば、我々の肉体は遺伝子が分裂した後次々に乗り移る運び屋であり、遺伝子の設計図のままに動くロボットみたいなものかもしれない。しかし、我々人間には知恵があり、遺伝子をリードしていく才覚がある。遺伝子のロボットで終わるわけにはいかない。利益には目先の利益と長期的な利益があり、目先の利益は他人を蹴落とすことかもしれないが、長期的な利益は利他的、つまり他人のために生きるところにあり、それによって心から喜びとはかり知れない利益が得られるものである。定見なく目先の利益に突き進むことで自滅することがあることを人知は知っている。DNAで我々の人生が決まるのではない。努力、訓練によって遺伝子を凌駕することが出来るのだ。人に尽くす生き方によって遺伝子に長期的な利益をもたらし、健康で喜びに溢れた人生を築くことが出来るのである。
 本書は様々な例を挙げながらそれを実証しており、最高の生き方の処方箋で、生きる力が湧きあがってくる一書である。

『親からのDNAで人生は決まるのか?』小林 一久 著
北大医学部同窓会新聞 平成23年(2011年)6月23日

 人生は遺伝子によってほぼ決まると言う人もいるが、本書では遺伝子と生後の教育や努力の関わりについてあらゆる方面から検討し、如何に生きたら幸せになれるかを様々な例を挙げながら追求している。
 運動能力は素質と関係していることが多いが、学業成績では数学と国語では遺伝の影響はなく(社会と理科では関係がある)、仕事関係では、生まれつきの器用不器用はあっても、成果は殆ど努力で決まると述べている。
 出雲市で開業している天才的に大腸鏡が上手な医師を紹介しているが、その人は開業する前、同僚は車などを買っているのに、自分は給料やボーナスをはたいて200万円もする大腸鏡や数十万円するコロンモデルを買って仕事が終わった夜十時から十二時まで毎晩練習したとのことで、天才とか名手と言われる人にはそれなりの努力があるものだと述べている。
 本書の後半部分は、遺伝子と生き方について書いており、他人を自分と同様にとことん大切にして、人のために生きる時に全ての遺伝的要素を超越して最高の仕事ができて、最高に幸せになれると結んでいる。
 著者とはたまたま同じ職場で働いているが、卒業年度では大先輩である。しかし偉ぶるわけではなく、救急当直等も担当し、若手と全く同じ立場で、心から患者のことを思って仕事をしている。生涯人のために尽くす気概でつねに挑戦しており、その体験から書かれたもので、勇気と力を与えてくれる正に人生の羅針盤である。(西山 徹)

『天井桟敷の父へ』香山 マリエ 著
新潟日報 にいがたの一冊 平成23年(2011年)6月5日

自己の弱さに向き合う人生 評者・大倉 宏(美術評論家)

 画家ではない。
 人としての末松正樹─を描いた本が、もう一冊現れた。昨年刊行の司修「戦争と美術と人間 末松正樹と二つのフランス」は1944年、フランスの日本領事館員だった末松(新発田市生まれ)が大戦末期、スペイン国境に近いペルピニャンで敵国人として逮捕され、ホテルの一室に拘束された時期までを追った人間告発の書だった。
 本書は、末松の一人娘で戦後生まれの著者が、ペルピニャンを訪れるところから始まる。欧州の新しい舞踊運動に引かれて渡仏した末松が、大戦の勃発に遭い、とどまり、国境のホテルの一室で描き続けたデッサンから、画家として出発する。末松の人としての弱さと卑屈を、激しく鞭打ちつつ歩いた司と異なり、著者は自分の出会う前の父については極力客観的に語ろうとする。
 本書の力は、司が書かなかった戦後の末松の、フランス美術、映画の紹介者、画家としての活躍の背後に隠された、肉親にしか見えない暗部を見つめ、言葉にした点にあるだろう。末松が生前何人にも語った「弱さ」とは何か。酒乱だった忌まわしい父の忠告「専門家になるな」に呪縛され続けたこと、息子を溺愛した母の虚言癖と狡さを、終生正面から見据えられなかったこと。自分を弱くしたものを、どうしても拒絶できない二重拘束。その生い立ちと、同じく激しくいがみ合った父母のもとで育った自分の体験が似ることに「父は気づいていただろうか」と筆者は問いかける。
 生前の末松に会い、聞いた言葉、見た絵に、筆者も「弱さ」を感じた。それでいて、惹かれるものがあった。宿命的な弱さに圧されてなお、人生に向き合おうとする思いを、この人は持っていた。
 晩年穏やかだった両親に「そう簡単にあの日々をなかったものにされてたまるものか」と思った娘が綴る本書の、毅然としたトーンは、「目をそらせていた」人の切実だった願いをはねつけるのではなく、長い葛藤ののち受容した場所から立ち上がってくる。
 子に、かく打たれても壊れぬほど、画家の人間的弱さが根深いものだったとしても、その人生は、生前他者の前では立てることのなかった音を響かせる。
 肉親の書く人生の事実と、その人生の生んだ抽象絵画は別物だろうか? そうは思わない。うつろを抱えた明るい絵の、塗り隠された影までも含む全部を、見つめる勇気を読後抱くことができた。

『ぱちもん』多門 昭 著
陸奥新報 平成23年(2011年)2月5日

味わい深い小説集 評者・藤田 晴央

 スーパーのおすすめコーナーに和菓子(洋菓子でもいい)が並んでいる、食してみれば……。
 『杠』は、70代半ばの男が孫娘の結婚式のために上京、式のさなかに突拍子もない振る舞いをして、控室に連れて行かれるエピソードが中核になっている。そうして帰りの列車の中から、ゆずりはの茂みをじっと見つめシーンで終わる。懸命に生きてきて人生の終盤を迎えている一人の男の、日頃は抑制されている情感がじんわりと伝わってくる。
 『カド台の女』は、パチンコざんまいの美女とパチプロの男との交流が話の中枢になっている。家庭から逃げ出すように通っている年輩の女も含めて、ここには人生の悲しみが悲しみのままに描かれている。有体に言えば彼らは悲しみからパチンコに逃避しているのかもしれない。けれど、書き手はそのような人生をありのままに認めている。
 『花喰らい』は、中年の男が客として入った花屋の女と深い仲になるものの、不意に立ち去られる話で、知り合うきっかけとなった無花果が印象深い。美果という女の存在感のなさが、かえって一人の男の空虚さに抗おうとする焦慮をあぷり出している。
 『ぱちもん』は、車にわざと当たって慰謝料を取っては病院暮らしを続けている76歳の老女の話。たまたまぷつかった車の善良な男と親しくなり、見舞いを心待ちにするようになる。実際の息子夫婦には愛情を感じられず、ねじけた老後を送る老女の孤独感がユーモア豊かに描かれている。
 『会厭』は妻に先立たれた男と妻の身代わりのように転がり込んできた猫の話。やもめ男と猫のふれあいはほほえましいが、どこか淋しい。
 などなど、多門昭の小説には、現代に生きる人間の孤独感と、温かいペーソスが流れている。蘇我氏の一族・真如が厩戸皇子を菓う、歴史の登場人物に素材をとった力作『蘇奴夢』は、それらとはまた別の読み応えがあり、この作家のもうひとつの可能性を示している。
 ともあれ、収められた九つの短編から私たちは、〈小説〉という食べ物の醍醐味を味わうことができる。そこにあるのは、人間というものが、実は愚かで始末におえないものであることを直視しながら、それでもなお、その愚かさのうえに生起する人生の哀歓に価値があるという思想だ。私はそこに共感する。
 「ぱちもん」とは「まがい物」という意味を持つ言葉とのこと。小説とは「まがい物」の中から〈真実〉を伝える器だと作者は言いたいのかもしれない。作者には失礼かもしれないが、敷居の高い菓子屋ではなく、スーパー(それは〈現代〉の比喩でもある)で売られている菓子をおいしいと思う、そんな味わいがある小説集である。

『風景』山口 馨 著
北日本新聞 平成22年(2010年)12月4日

人間描写し微かな光 杉田欣次(文芸同人誌『渤海』編集委員)

 小説集『風景』には、八編の作品が収録されている。いずれも著者が所属している文芸同人誌『渤海』に発表されたものである。
 どの作品も、人間の心に潜む、言葉にし難い思いを巧みな構成と筆力で造形している。さりげない題名にも独特の仕掛けがなされていて、読み手の腑に落ちるのを助けている。
 「四匹目の猫」には、職場で居場所を無くした男が登場する。友人宅での夫人との会話に猫が出てくる。一匹飼うのは普通、三匹まではまあ許せる。三匹を超えると……。普通ではない、危うさが漂った作品である。
 「帳」では、事故で子どもを亡くし、妻と母を追い出した男が登場する。男は友人に促され、帳を押し開いて妻に連絡しようと思う。
 「黄八丈」は、娘の目から、謎めいた大人の世界を見た作品だ。娘はこげ茶色の黄八丈に深い沼を思う。そして、その沼に体を滑り込ませる自分の姿を想像する。
 「イヌイットの皮袋」では、互いに家族から取り残された、男と少年が登場する。少年の話にイヌイットの皮袋が出てくる。袋にアザラシの後ろ足の骨を入れ、引っ張り出した骨の形で家族の役目などの話を作る遊びだ。
 「月壺」の男は、女と美術館で、二つの半球を精密に繋ぎ合わせた月壺を見る。男は、他人であった二人が互いを理解して受け入れる人間の生き方と似ていると思う。
 「つくも坂」には年の近い叔父と甥が登場する。出生の秘密を背負った叔父が山の家に籠り、甥がつくも坂を上って叔父を訪ねる。この坂を毎日上り下りしなければどこにも行けない。かつての叔父の言葉を思い出す。
 「金魚」には、二人の高齢女性が登場する。互いに身辺に重なる風景を持っている。一方の女性が金魚屋を営み、その職人が鉢のガラスの曇りに注意と言う。向こうが見えなければ、向こうからもこっちが見えません。
ここまでの作品は「風景」シリーズで発表されたものだが、八編目の「月の夜は」はその群れからはずれた作品である。末尾に〈T・K氏に〉とあり、一味違った幻想的な趣がある。「あとがき」によれば、富山ゆかりの久世光彦氏への思いを込めた作品であるようだ。
 「月の夜は」にも、出生の秘密を持つ和尚が登場する。作品は、その妻である大黒が出会ったウコン色の車の不思議な男が、妻の言葉だけで語られる。その男は鮮やかである。まさに、月の夜に聞かされる御伽話のようだ。
 八編はすべて短篇である。人間をしっかりと描写し、人生の生き難さを語りながら、末尾で微かな光を差させている。だから、一作一作に長編のような重量感がある。『風景』は幅広い読者を持ち得る作品集であると思う。
 私事だが、実を言うと私も『渤海』に所属している。日ごろから、真摯な合評会は同人誌の水準アップの砦だと言っている。そこで、今までは作品の難点を指摘することを専らとしていた。が、今回の機会を得て、今まであえて言わなかったことだけを書かせてもらった。

『晩節の宝石箱』中尾 實信 著
週刊読書人 平成22年(2010年)11月12日号

真の老人医療と向き合う
読者の心をひきつける温かなまなざし 評者・伊藤玄二郎(関東学院大学教授、かまくら春秋社代表)

 身に覚えのある話である。94歳で逝った母は典型的な老人医療のベルトコンベヤーに乗ってあの世へ行った。
 晩節に宝石箱を手にしたのかどうかは定かでない。輝く宝石として心に映るのか、単なる石ころに見えるのかは、本当のところは本人しか分からない。もしかしたら、本人にも分からないかもしれない。
 旧くは森鴎外のように、医師であって文筆家である例は少なくない。著者もそうである。医療現場で繰り広げられる深刻な問題を、現場を熟知している著者の視点から淡々と描かれている。医療の裏側をセンセーショナルに暴こうなどという気は微塵もない。冷静な目が現場の臨場感と読者の想像を増幅する。
 著者は白血病の研究医師を主人公とする長編小説『静かなる崩壊』で作家デビューを飾り、以降『花釉』『いのちの螺旋』『小堀遠州』『青春─遠い雪の夜の歌』と、臨床医師であり続けながら、医療小説から歴史小説まで多彩な才能を発揮してきた。著者の全作品を通じて言えることだが、本書も、医師として以前に一個の人間として向けられた温かなまなざしや、主人公を通して垣間見える率直な苦悩の姿が、静かに読者の心をひきつける。

 主人公松山重人は、呼吸器内科専門の医師。東京の私立医大で教授を務め、妻奈緒子、一人娘雪子と暮らす順風満帆な五十代のはずだった。重人の〝誤診〟により奈緒子を乳癌で亡くした一年後、もう一度現場で医者らしい仕事をしたいと、「主治医になれない」大学教授を辞し、関西の名もない老人病院で一臨床医として再出発するところから物語は始まる。
 直接患者を受け持ちたいがため、また周囲のいらぬ特別扱いを避けるため、元大学教授の経歴を隠してのスタートであった。古巣では、老年病科の講座も主宰し老人医療に対してそれ相応の自負があった重人だが、この新天地で「大学病院老人病科の病室とは際立った異質」を目の当たりにし、真の老人医療と初めて向き合うことになる。
 本書はすべてフィクションとあとがきにあるが、介護保険導入以前の1992年、重人と同様、大学病院を離れ老人医療の最前線に立った著者の経歴を見れば、架空の人物の中に著者の姿がはっきりと浮かんでくる。
 さて、忘れてはならないのは物語のもうひとつの柱でもある重人の「恋」である。通勤途上に見かける若い娘「サブリナ」、シングルマザーの看護師秋尾美沙子。亡き妻への深い愛情を抱き続ける一方で、年の離れた彼女たちに淡い恋心を抱く重人の感情がみずみずしく描かれている。重人の運命と共に、彼の恋はどのように展開していくのか──。
 加えて本書の隠れた見どころは、たびたび登場する本だ。それは奈緒子が最後に買った染織家志村ふくみの作品集であったり、かつて夫婦で語り合ったオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』であったり、北海道美瑛の風景写真集であったりする。ほとんどの本は取り立ててクローズアップされるでもない、いわば小道具であるが、登場した本を並べてみると、そこに重人や奈緒子という人物が見えてくる。
 また、折々に年老いた患者たちが重人に語る第二次世界大戦、戦後の激動の時代を生き抜いた日々の場面は、著者が直接患者たちから聞いた話が元になっている。
 「『寝たきり』の老人たちの世代は貴重な生き証人である。心の奥にしまいこんだ戦争体験やさまざまな傷痕を、そのまま朽ち果てさせてはいけないのではないか」小説に描かれた重人の心の声は、年老いた患者たちの側に立って共に生きる著者自身からのメッセージでもある。
 「人生の晩節にあたり、誰のこころにもかけがえのない宝石箱があるのではないでしょうか」と語る著者。高齢化社会の時代に突入した現在、問題山積の医療現場のなかで、患者一人ひとりの宝石箱に寄り添うことができたなら、未来への新しい希望の光となるのではないかと思う。
 私も重人のような医師に看取られて彼岸へ旅立ちたいとおもうのだが。

『風景』山口 馨 著
富山新聞 平成22年(2010年)10月20日

短篇集「風景」発行 富山の山口さん

 富山市の山口馨さんはこのほど短編集「風景」を発刊した。とある作家の突然の死に遭遇し、悼む気持ちを込めた「月の夜は」など富山の文芸同人誌「渤海」に掲載された8作品が紹介されている。

『ドイツ詩を読む愉しみ』森泉 朋子 編訳
図書新聞 平成22年(2010年)10月13日

文学の核心とも言える詩の世界に、ドイツ語を学んだことのない読者を導く試み
原語のイメージを再構築した和訳と、簡潔で心のこもったコメントが光る 評者・富田 裕(ドイツ文学研究者)

 ドイツ文学における詩のイメージは、日本ではおそらくは一般的には次の二つの側面があるだろう。第一には、音楽に携わる専門家からその愛好者にいたるまでに見受けられる、ドイツ歌曲の土台となったテクストへの(場合によっては)畏敬の念を含んだ関心の強さ、そして第二には、ドイツ文学の避けがたく持っていると(誤解されて)考えられている、硬く、そして晦渋な言語世界のなかでも、散文に比べても理解しにくい詩というものへの不安感である。
 しかしドイツ詩についての以上のような長短併せ持つ両面は否定することができずとも、本書によって文学の核心とも言える詩の世界に、ドイツ語を学んだことのない読者を導き入れようとする試みはいくらかでも達せられたのではないかと思うのである。それはまず編訳者自らが「はじめに」において書いているように、幼年時代に日本語訳で触れたドイツ詩の魅力の延長線上として、のちに学んだドイツ語を介して一層ドイツ詩の響きの美しさに惹かれたこと、さらにそうした編訳者のドイツ詩に対する印象を何とかして一般の文学愛好者たちにも知ってもらいたいと熱望した結果なのである。
 読者をまず詩の世界に案内するために、編訳者による原語のイメージを出来る限り再構築するようにした和訳と、加えて編訳者の簡潔ではあるが、心のこもったコメントが付されており、読者はドイツ語の知識をまったく持たなくとも、詩の世界へと足を踏み入れる助走の段階に辿り着くことができるのである。またゲーテ、シラー、ヘルダーリンなどの「前古典期から古典期の詩(十八世紀から十九世紀にかけて)」から発して、A・フォン・アルニム、アイヒェンドルフ、ハイネなどにいたる「ロマン派とハイネ(十九世紀前半の詩)」を経て、ドロステ=ヒュルスホフ、メーリケ、シュトルムなどの「自然主義の詩(十九世紀の詩)」から、ホーフマンスタール、リルケ、N・ザックス、ブレヒト、ツェラン、フリートなどの「十九世紀末から二十世紀の詩」へと流れ込む詩的言語の大河を、編訳者は自らの個人的な体験をまじえて、軽快な、しかし時には憂愁に満ちたコメントに引き寄せつつも、読者があまりに編訳者の感情に押し流されすぎないように、一定の距離感を持って案内役を果たしているのである。それはちょうどドイツ詩の大河を下る船の上で、対象を乗客たちの目と耳で感じてもらうために、敢えて饒舌に陥らないように努力する船頭に似ているとも言えるだろう。
 各時代区分ごとに挿入された本書の写真の中でも、特にエルンスト・バルラッハの『闘う天使』という彫像(本書一五二~一五三頁)は印象的である。このナチズムによって退廃的だとされた芸術家の苦難だけでなく、キリスト者としての彼の深い信仰生活から生み出されたとも言える、狼の上で剣を振りかざす天使像に、読者が以下のようなことを感じ取って欲しいという本書の意図が推測できるからである。
 例えば編訳者はホーフマンスタールの詩「外面生活のバラード」のコメントにおいて「徹底した虚無感」「人はなぜ聞き、話し、笑い、泣くのか?」(本書一六三頁)という詩人の絶望的な叫びに触れる。そこには「はっきりとは語れないところに現代人の苦しみがある」(本書一六五頁)からだという。そうした「チャンドス卿」(本書一九六頁)の苦悩については、詩を「自分の意志で書こうとして書けず、あらゆる作為を捨て去った後に自ずと生まれ来たるもの、それは天から創作者に与えられた恩恵であり、その恩恵にあずかることができるのは、読者に与えられた喜び」(本書二二六頁、カシュニッッツの詩「書くことで」の編訳者のコメント)であると考えることで、それがすべての解決ではないにしても、言語の可能性を対置して生きてゆくしかない、という詩人の読者への必死の語りかけがあるとも言える。
 言い換えれば、ドイツ詩という言語世界のなかに認められる様々な喜怒哀楽は、この地上で生きて、死んでいく人間の共通する姿そのものであり、そこでは言語が、生命の永遠性や愛の本質や死後の世界のしるしとしての神の存在を考える際の、人間の唯一の灯り、或いは道しるべとして考えられるということである。しかしそうしたことを詩から感じ取るのは時に困難であり、すべての人間にそれが可能であるとは言えないが、それでも少なくとも、バルラッハの闘う天使のように、ドイツ詩の提出する重厚な、それでいて人間味あふれる言葉の次元へと、敢えて足を踏み出して、そこから自らの深層意識の底で淀んだままになっている生と死へのはっきりとした眼差しを勝ち取って欲しいというメッセージにも聞こえるのである。
 最後に評者の希望としては、ドイツ語の原文が対訳で掲載されていれば本書はさらに有為なものになっていただろうと思うのであるが、それでも編訳者の的を絞ったコメントに読者は大いに助けられるであろう。

『季刊文科49』
週刊読書人 平成22年(2010年)9月3日

風来

 文藝春秋の元編集者で、現在は松江市の観光文化プロデューサーをしている高橋一清(かずきよ)氏が『季刊文科』(鳥影社)に連載している「作家魂に触れた」の第6回(49号)は、今年亡くなった井上ひさし氏について書いている▼この回の大部分は、1990年8月8日から11月22日にかけて、井上氏と高橋氏との間に交わされたファクシミリによる文通のやりとりを再現しており、異色のドキュメントとなっている▼高橋氏は1990年6月、「別冊文藝春秋」の編集長となり、同誌に連載中だった井上氏の『東京セブンローズ』の担当を引継ぐ、長らく中断していたこの作品を完成させるために苦労した。その様子を、手紙は生々しく伝えている▼たとえば、1990年8月20日20時23分の井上氏の手紙の一節。〈今、必死で筋立て(プロット)作業中です。午後十時から書き始めます。明日中にはぜひとも! と決心しております。三時間おきに自動的に送稿いたします。なにかありましたら、仕事部屋にお電話します〉▼これに対する同日20時50分の高橋氏の手紙。〈お知らせ有難うございました。いろいろな仕事をしながら、ご送稿をお待ち申し上げます。始まりの前のおちつかぬ状態、お察し申し上げます。思い切って乗りこえて下さい。いいお仕事です。つづきを多くの読者も待っております。では、入稿を心待ちにします〉▼こんな具合に再開された連載だが、194、195、196号は戯曲執筆のため、休載となる。「遅筆堂」と自称した井上氏の仕事が、どのように行われたかを示し、作家と編集者の関係を明かす貴重な資料である。

『裸身』宇佐美 宏子 著
朝日新聞夕刊 平成22年(2010年)8月26日

官能と差別、リアルに 評者・清水 良典(文芸評論家)

 今月は注目すべき単行本がたくさんあった。まず最初に、宇佐美宏子の『裸身』(鳥影社)を紹介する。ひとりの女性の幼い記憶から、旅回りの俳優との出会い、零落の結婚生活、そして男の死まで、回想的な時系列の作品が収録されているのだが、とりわけ三部作「裸身」の中の「黒い蛇」が傑出している。村の火葬場に勤める老人と暮らす少女と、主人公が友人になって家に遊びに行く。その家の陰惨で淫猥な雰囲気。また母の留守中に浮浪者の男が家に入ってきて食べ物を漁る。食べ終えてから礼を言って男が見せた躍りの卑猥さ。好奇心と嫌悪と秘かな官能が、恥ずかしい傷のように少女の心に刻み付けられる。貧富の差や地域の差、あらゆる格差と差別が恐ろしいほど露出していた時代の、強烈な〈世界〉との出会いがある。男と女の性差もまた毒々しいまでに露出していた。そういう原色のエネルギーが、この作家には今もリアルに宿っているようだ。

『星からの風』青木 健 著
朝日新聞夕刊 平成22年(2010年)8月26日

評者・清水 良典(文芸評論家)

 青木健の『星からの風』(鳥影社)では、一九八四年に新潮新人賞を受賞した表題作に、昨年続編が書き足されている。十七歳で自殺した友人と同級生の女性をめぐる「俺」の物語が、中年になった「わたし」に受継がれる。七・八〇年代にみなぎっていた情念と、川や山など自然との交感が、現在読むと異様なほど濃密だ。それが「わたし」から宇宙の営みと重ねられて語りなおされるとき、改めてこの四半世紀の変化の激しさを思い知らされる。

『極楽鳥の愁い』松本 道介 著
週刊読書人 平成22年(2010年)7月9日

大言壮語への自然な反発「憑りつかれた人間」についての批評 評者・菊田 均(文芸評論家)

 評論集なので、全体を通したテーマがあるわけではないが、私なりにそれを取り出してみると、「憑りつかれた人間」についての批評(批判)ということになるのではないか、と思えた。
 日米開戦について宣戦の詔勅が放送された時の小林秀雄の反応は、「僕らは皆頭を垂れ、直立していた。眼頭は熱し、心は静かであった」(「三つの放送」)というものだった。
 当時としては自然な、ごく普通の反応と思う。が、曽根博義(国文学)は、小林の文章が気に入らなかったようだ。「当時、文学者や知識人がこぞって発表した千篇一律の文章にすぎない」と曽根氏は書いた。「小林秀雄、お前もか」と曽根氏は思ったのだそうだ。
 著者はこの文章に反応する。曽根氏は小林秀雄に対して、特別な思い入れがあったのではないか、という風に。
 私も著者の見方に同意する者だが、曽根氏は、小林のことがよくわからなかったのだろう。でないと、2006年段階で曽根氏がこんな文章を書く理由が説明できないからだ。「戦争=悪」という条件反射に憑りつかれてしまえば、小林の文章が語っているものは見えてこない。曽根氏の「見えなさ」を著者は敏感に書きとめている。批評の果たすべき役割をそこに見ることができる。
 加藤周一についての批評も納得だ。この批評家は、ヨーロッパ中心主義を一度も疑うことなく死んで行った。「西欧」という観念に骨がらみになっていた。
 日本は南京事件を水に流そうとしたが、ドイツはアウシュビッツを水に流そうとはしなかった、という類の比較論を加藤は省みることがなかった。戦争犯罪としての南京事件と、国家犯罪であるアウシュビッツの混同。それが意図的なものか無意識のものかはさておき、重大な歴史的事件についておかしな判断を下すことの愚かしさについての批評だ。
 戦争に行かなかった加藤は、そのことに後ろめたさを感じたことはなかったのか、という著者の問いへの答えも、加藤の生前に聞いておきたいことだった。戦争に行かなかったのは勝手だが、代わりにだれかが戦争に行ったであろうことは確かだからだ。そうしたことを考えない文学は存在するのだろうか、と私も思う。
 吉村昭『生麦事件』について渡辺保が書いた文庫解説についても批評は及ぶ。「人は歴史を忘れなければ、未来においても道を過たない」などということが神ならぬ人間にとってありうるのだろうか、というまっとうな問いだ。
 こう正面から問われれば、渡辺氏だって、「そうとは言い切れない」と弁解するしかないだろうが、書いてしまった文章は取り消せない。気楽に書いてしまった、というのが真相だろう。
 「文庫本の解説に書かれた文章に異を唱えるなどというみっともないことはしたくないのだが……」と著者は断っているが、少しもみっともないことではない。
 自分は突拍子もないことはしない人間だ、と著者は書いている。バランス感覚が著者には備わっているのだろう。様々なタイプの大言壮語への自然な反発がこの本では批評の形で現れている。貴重なことだ。

『井真成、長安に死す』岩下 壽之 著
サンデー毎日 平成22年(2010年)4月4日号

サンデーらいぶらりぃ 読みどき旬どき

 2004年、中国・西安市で発見された井真成の墓誌。奈良時代に遣唐留学生として中国に渡った彼はどういう人物だったのか? その謎に包まれた波乱の生涯に、在野の研究家が迫る。

『放浪のユダヤ人とエッセイ二篇』ヨーゼフ・ロート 著 平田達治 訳
週刊朝日 平成21年(2009年)8月7日号

話題の新刊 評者・姜 信子

 ユダヤ人作家ヨーゼフ・ロートが言うことには、人間とは、現実が恐ろしいものであるほどに、目をつぶり、より恐ろしい運命へと流されていく生き物であるらしい。
 ナチスが台頭しつつある欧州で、わずかな希望を求めて彷徨うユダヤ人たちを、ロートはじっと見つめている。後に彼らを襲う運命を知る予言者のように言葉を紡ぐ。
 なぜユダヤ人は追われるのか? 力ある大きなものにまつろわぬからだ。では、まつろう者に安住はあるのか? いや、それもまた、大きなものとともに滅びの運命へと流されてゆく、もうひとつの放浪。そうロートは言う。いずれにせよ、「人は放浪して行く、──いや、よろめいていくのだ、笑止千万な希望へと」。
 目をつぶるな。現実を、恐怖を、絶望を凝視せよ。そんなロートの声は、真の希望のありかを知る放浪の予言者が、すべての人間に向けた痛切な叫びのようにも響く。

『グリムにおける魔女とユダヤ人─メルヒェン・伝説・神話』奈倉洋子 著
こどもとしょかん 平成21年(2009年)夏号

資料室の本

 グリムの童話集、伝説集、神話学に悪として登場する魔女やユダヤ人に注目し、版を追って表現が変化する過程やその要因を考察。独文学・文化の専門家が自身の論文を加筆修正。

『みどりのシャワー』久保田昭三 著
望星 平成21年(2009年)2月号

新刊紹介

 詩人であり、童話作家である著者が、日常の中で感じたこと、自然とのふれあいの中で思ったことなどを表現した詩集。子どもたちに贈るこれらの詩は、素朴でやわらかい。読み手の心にストレートに伝わってくる。

『浦賀与力 中島三郎助伝』木村紀八郎 著
産経新聞 書評倶楽部 平成20年(2008年)11月21日

武士道に殉じた姿を称賛 評者・中島誠之助(古美術鑑定家・エッセイスト)

 函館市の市街地に中島町という一郭がある。郵便番号では040-0014で表示されている。この町名が最後の武士と称えられ多くの人々に感銘を与えた函館戦争の勇者、中島三郎助を記念して命名されたことを知る人は少ない。
 この人は三浦半島で、浦賀奉行与力の子として文政4年(1821)年に生まれている。与力という役職は徳川幕府の機構のなかでは最も身分の低い幕臣である。
 その人が徳川家に最後まで尽くした忠節の武士として、明治政府の元勲たちに「幕臣中島三郎助、函館戦争で戦死忠勇比類なし」と言わしめ、その武士道に殉じた姿を称賛されているのだ。
 アメリカのペリー艦隊が浦賀の沖へ来航したのは嘉永6(1853)年で三郎助33歳のときになる。旗艦サスクエハナ号に真っ先に乗り付けて交渉に当たったのは月番の応接係だったこの人である。
 そして三郎助は激動する幕末期に幕府海軍創設の最前線に身をおき、軍艦の建造から防衛のための台場造成と大砲の鋳造などすべてにおいて関わっているのだ。
 幕府の異国船対応と海軍伝習所の開設、王政復古と薩長勢力の台頭など激動の時代をよそにして、三郎助は忠実な能吏として淡々と己の職務を果たしていく。
 やがて来る幕府の瓦解。海軍副総裁、榎本武揚は軍艦の新政府軍への引き渡しを拒み函館行きを決行する。幕臣であり徳川家に恩顧を受けた三郎助は2児と共に乗船して江戸を後にする。
 五稜郭陣営での榎本軍最後の軍議では将官たちに降伏を唱え、自分は断固として守備陣地を守り敵弾に当たり討ち死にをする。この本は惜しまれて止まぬこのような男がいたということだけでも、現代人に知ってもらいたいという熱望の書である。

『千道安』斎藤史子 著
奈良新聞 平成20年(2008年)9月21日

娘の目通し波乱の人生語る 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 とにかく冗舌体で、次から次へと言葉がつながっていく。父・千利休の子として生まれた千道安(せんの・どうあん)。茶道の家に生まれたしがらみと宿命の中で悶々(もんもん)と悩む。その姿を、娘の目を通して見事に描く。
 登場人物も多彩で、信長・秀吉はもとより、紹鴎・宗湛らの茶人をはじめ、長宗我部元親、三好長慶などの戦国武将が見え隠れする。戦乱の世に、いかに生きおおせるかは各人の実力と運が働くことは言うまでもないが、そんな中にあって、茶人たちも同じこと、生き延びることは必定であった。
 だが、父・利休の自刃は何もかもを狂わせ、後々までも尾を引くことになる。それにしても、秀吉の権勢をほしいままにする態度は全く許しがたいが、子の道安にとっても、父の死はいかにも無念であった。
 ここでは、運命に翻弄(ほんろう)される道安の苦悩は、痛いほど分かるが、しょせん運命に逆らうことはできぬ。編中、ほっとするところは、出奔(しゅっぽん)していた道安が、ひょっこりと帰ってくるところである。それも帰路の途中で茶碗を買ってくるところは、全く救われる気がするから不思議だ。
 茶碗は、茶人にとって命であろう。道安は道具屋が持ってきた一つの茶碗に見入ってしまう。すると、道具屋は「さすがに、お目が高い」というが、やはり茶人には、いいものが一目で分かるのである。
 ところで、本作品は茶人を描きつつ、戦国の世を余さずにとらえ、歴史絵巻の風情を添えていることはいうまでもないが、語り手としての娘の犀利(さいり)な眼が、全体のリード役として優れていることは、特筆すべきであろう。
 ともあれ、茶道を語り、歴史を語りながら政治の複雑な裏側にまで立ち入るなど、単調さを避けるために意外な工夫が施されていることも看取できよう。そして、読んでいて、うっかり見過ごしてしまう巧みなナレーションに感心した。茶の道はまた人の道でもある。

『イタリア映画史入門1905─2003』ジャン・ピエロ・ブルネッタ 著 川本英明 訳
産経新聞 平成20年(2008年)9月14日

 映画は19世紀に生まれ、世界各地で産業として発達した。イタリアは、そんな映画大国の一つである。本書は、20世紀初頭のサイレント時代から21世紀までを網羅した決定版。巨匠やスターの足跡も分かりやすく紹介されている。
 紙数が割かれているのは1960年代だ。「世界の映画市場でイタリア映画が躍進する気運」が高まった時代だった。60年には「甘い生活」「若者のすべて」などの傑作が製作され、その後も「荒野の用心棒」や「夜」など映画史に名を刻む作品が送り出された。ソフィア・ローレンが世界的な女優の地位を確立するのもこのころだ。最近は世界市場で元気のないイタリア映画だが、いかに偉大だったかがよく分かる。巻末には年表も。ファンなら書棚に欲しい一冊。

『否定詩学』尾張充典 著
奈良新聞 平成20年(2008年)8月17日

カフカ作品再認識の道導く 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 フランツ・カフカの名を聞いてからすでに久しい。だがカフカについて、あるいはカフカの作品についていかほどのことを知っているだろうか。本書ではそうした疑問に対し、新しい角度から解明した事柄を語りかけてくれる。
 しかし、それらは決して容易ではなく、むしろ難解でさえある。けれども、述べられた言々句々を丹念にたどっていくところに読者としての義務があるのであろう。それは巻かれた時計のねじを解きほぐしていくように、少しずつ理解していく以外に方法はあるまい。
 ところで、カフカは一風変わった創作態度をとっていた。すなわち「カフカは、日記や手紙で、繰り返し自分の著作活動に言及し、様々なメタファーを用いて自分の創作の原理をそのつど打ち立てていた」とするのがそれであるが、ほかにも「カフカの創作行為を語る際、妊娠の比喩(ひゆ)には注意が必要である。というのも、彼の作家としての基盤を形勢した物語『判決』の成立の際にも、出産のメタファーが用いられていたからだ」と述べられている。
 このように、作品内容はもちろんであるが、この創作行為においては、ユニークな考えを持っていたことは、いま触れた通りである。さらに、「このように彼の書く行為は、射精、懐胎、出産と、両性の三つの行為が重なった生殖行為と把握される」とし「それを、挿入と受胎を経て出産へと至る文学の両性具有的な融合と見ることもできるかもしれない」と指摘されている。
 もし、このような見地に立って『変身』をはじめ『流刑地にて』はいうに及ばず『うた歌いヨゼフィーネ』『巣穴』『ある犬の研究』『断食芸人』などを読みなおしてみると、これまでと違ったカフカの印象が生まれてくるに違いない。
 本書はそうした意味において、これまでにはあまり試みられなかった方法で、カフカ再認識への道を指し示された優れたオマージュではなかったかと愚考されるのである。

『千道安』斎藤史子 著
河北新報 平成20年(2008年)7月28日

茶の湯の精神性丹念に

 偉大な茶人・千利休の嫡子として生まれ、家庭の事情や利休と豊臣秀吉の確執などに翻弄(ほんろう)されながらも、茶の湯を究めた千道安(せん・どうあん)=1546─1607年=。その波瀾(はらん)万丈の生涯を、一人娘の静の視点を通して描いた歴史小説だ。
 著者は、仙台市出身の小説家斎藤史子さん(和歌山県高野町)。第七回大阪女性文芸賞受賞者で日本ペンクラブ会員。茶の湯の世界を表現した小説の深さには定評がある。
 道安は父を超えたいと思うあまり、利休に激しい愛憎の念を抱きながら、葛藤(かっとう)を乗り越えていく。本著では嫡子でありながら、利休の系譜から外された無念さや秀吉と利休の確執、自死事件など、道安の数奇な運命をつづる。
 最終的には堺の地で利休の生家と侘茶(わびちゃ)を継承する道安。著者は、簡潔さの中に力強さを備えた茶の湯を究めた姿と精神性を丹念に浮き彫りにした。
 静を語り手にした構成が奏功し、道安の人間像が思いやりに包まれて描かれている。さらに、女性であるが故に父の茶を継げなかった静自身の口惜しさもひしひしと伝わってくる。

『イタリア映画史入門1905─2003』ジャン・ピエロ・ブルネッタ 著 川本英明 訳
朝日新聞 平成20年(2008年)7月27日

約百年のイタリア映画史充実した資料・年表で解説

 ビスコンティやフェリーニら数々の巨匠監督を輩出したイタリアの映画史を詳説する『イタリア映画史入門1905─2003』(ジャン・ピエロ・ブルネッタ著、川本英明訳)が鳥影社から出版された。イタリア映画の原点といわれる「ローマ占領」(1905年)に始まる第1部「無声(サイレント)映画の時代」から第5部「70年代から現代まで」におよぶふんだんな解説に加え、年表、人名索引、映画のタイトル索引など、資料も充実している。

『千道安』斎藤史子 著
週刊朝日 週刊図書館 平成20年(2008年)7月11日号

 茶人・千利休には道安という実子がいた。道安は茶人としても活躍し、利休の商いは継いだが、茶は再婚相手の連れ子が継承する。そこに何があったのか。道安の娘の視点で、利休の自刃や茶の湯の世界、道安を軸にした利休一族の盛衰を描いた小説。

『愛知県宝飯郡・前芝村のころ』庄田綾子 著
東日新聞 平成20年(2008年)6月26日

 豊橋市前芝町の旧家北河家六代の三作は明治16年、さかと結婚、三作はさかの弟2人を連れ、伊勢・桑名等渥美半島、三河、伊勢湾を航海して廻船業を営み、相当の財を成した。
 前芝では明治33年、北河文吉が製糸業に着手、三作の一人娘・さわは明治36年、渥美半島百々の旧家清水家12代・道太郎の弟・耕次郎を婿に迎え、耕次郎は日露戦争に従軍、功七級金鵄勲章をもらって中国から帰還、北河製糸場を始めた。
 耕次郎の兄・道太郎は■(記号に中)、いとこの熊太郎は■(○に中)製糸を始め、姉せいは夫と共に■(○に一)尾嶋製糸、妹てつは中神家に嫁いで■(記号に中)製糸、その妹きくゑは白井家に嫁■(○にキ)製糸を操業するなど、兄弟は皆、製糸一族となった。
 さわは8人の子を産み、明治37年に生まれた武が8代目を継ぎ、昭和6年生まれの昭男が9代目となった。
 著者の庄田(北河)綾子は昭男に続く長女として昭和8年に生まれ、昭和30年、商社マンの夫と結婚、上京するまで前芝に住んだ。
 昭和18年、企業整備で製糸を閉じた北河製糸は軍需工場となったが、19年12月の東南海地震では煙突が倒れ、操業できなくなった。
 武の妻で綾子の母・静子は千郷村稲木(現・新城市)の素封家・藤田家の出で、母の妹・まつゑは気賀の杉浦家に嫁ぎ、幼い綾子は新城、気賀に遊びに行った思い出がある。
 多くの女工さんがいた北河製糸の寄宿舎は2棟、土蔵もあり、父は女工集めのため、奥三河の山間地に足を運び、隠居した祖父・耕次郎は前芝・蛤珠手、小坂井・東漸寺の総代、神社の氏子総代を務め、跡を父・武が継いだ。耕次郎は昭和53年、102歳の長寿を全うした。
 前芝の歴史と一族の人々の思い出をつづった著者の庄田綾子の書道名は翠苑、田中松亭、前芝出身で遠戚(せき)の松下芝堂に師事、03年には日展に入選、名古屋に在住する現在も書道界の重鎮として指導に当たっている。

『運慶の謎』山野貞子 著
朝日新聞 読書欄 平成20年(2008年)6月22日

いざ、鎌倉 戦乱の歴史をしのび、古都を歩く 評者・大上朝美

 アジサイのシーズン。鎌倉に観光客の姿は絶えない。しっとりとした古都のたたずまいの底にはしかし、戦乱と血の歴史が潜んでいる。(中略)
 鎌倉期を代表する仏師・運慶の生涯を小説仕立てで描く『運慶の謎』でも、運慶が生きた平安末から鎌倉初期が、いかに戦乱に満ちていたかが縦軸になる。寺が焼かれ、仏像が焼かれ、しかしその破壊の中から再生への希求も生まれるのだ。運慶は「本当に神仏はあるのか」と疑う仏師として登場する。(後略)

僧兵が争いを繰り広げる仏教界に不信を抱き、後に奈良・東大寺南大門の仁王像を合作する快慶には不快感を持ち、妻以外の女性との間に盛んに子をなす。精力的で人間くさい運慶像が描かれる。

『千道安』斎藤史子 著
中外日報 読書欄 平成20年(2008年)5月27日

〝父の茶〟超えよう…嫡男のもがき

 千道安(一五四六~一六〇七)は、千宗易(利休)の嫡男である。千家の本家である堺千家を継いだが、男子がなかったため道安の系譜は途絶えた。今日に続く三千家は、利休の養子である少庵から続いている。少庵は道安の義弟に当たり、両者は茶人として比較されることも多いが、道安関係の資料は少なく、今日伝えられているのは少庵側から見た道安像だとされる。
 著者はこれまで、茶人の世界を描いた『草庵に光さす・山上宗二異聞』と『幻の茶器・小説織田有楽斎』を世に問うてきた。
 これらの取材の過程で、利休の家庭の事情、前妻と後妻とその子供たちの確執を知り、利休の人間くささに親しみを覚えると同時に興味を持ったという。
 前妻の子である道安は、後に和解するも父利休と折り合いが悪く家を出て、茶の世界から一時距離を置く。利休の高弟・山上宗二の取りなしで茶の世界に戻る。道安の父の茶を超えようともがく生きざまや、少庵を千家に入れた父との確執、少庵に対する複雑な思いが織りなす人間模様が展開する。
 道安の心の葛藤(かっとう)を娘静の語りで描き、女性であるため父の茶を継げなかった静の無念の思いが行間ににじむ。

『小堀遠州』中尾實信 著
奈良新聞 平成20年(2008年)5月25日

茶道で乱世生きた歴史絵巻 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 茶道を身上として乱世を生きようとした小堀遠州。世を渡ることの至難さは、一通りの苦労では歯が立たぬ。才能、機知、胆力、決断、およそ考えられるものを、総力をあげてかからぬと大変なことになる。
 幼時から父正次から、いろいろなことを学びながら成長してきたが、人生における謎はいよいよ深まるばかり。
 本書は著者が「月刊遠州」に五年にわたり連載した「小説孤蓬平心」をまとめたものである。その登場人物の多数はもとより、主人公小堀遠州を縦軸に、歴史の流れを横軸にした。みごとな歴史絵巻になっていることは、いうまでもないだろう。うれしいことに奈良の称名寺の村田珠光も登場する。
 また、転害町の漆屋の松尾源三郎をはじめ、馬借集団を駆使して巨富を蓄えた古市澄胤等々、大和の住民にとってはおなじみの人物たちである。
 遠州は、ある意味ではマルチ人間であったといえるかもしれない。のちに作事奉公にもなるが、建築のことにも精通していたのだ。茶道における細かな神経が、建築の世界にも通用したということだ。
 もちろん作庭もするから庭師としても一流である。それは方々の庭を見て回り、みずからの目を養うことであった。武将や茶人たちとの語らいも重要で、時にはまつりごとに関する質問を受けることもあった。
 一方では書をはじめ、美術品に対する知識も求められたり、ディレッタントとしての素養が必要であったから、神経の休まるときが少なかったといえる。
 歴史の流れは、関ヶ原の合戦が終わり、豊臣秀吉の時代が終わり、徳川家康の登場によって徳川時代の幕開けとなる。その間、めまぐるしい人事の更迭があり、複雑な人間関係を見せられる。
 しょせん、乱世の時代を、どう生ききるかは、永遠の課題であろう。人を倒し、踏み越えていくのは、不変の真理であり、善意のみでは生き残れぬことを告げている。ある意味では人生不可解だ。ここに空前の歴史絵巻がある。

『小堀遠州』中尾實信 著
週刊読書人 平成20年(2008年)5月9日

一茶人の生涯を描く 評者・待田晋哉(読売新聞大阪本社記者)

 桃山から江戸初期にかけ各地の庭の造営に携わった茶人の評伝小説を、五年かかりで執筆した著者は、滋賀県の民間病院で副院長として働いている。二段組みで八百五十三ページに及ぶ大著を読み進めるのは、峻厳な岩山にザイルを立てる作業に似ていた。堅い岩盤に跳ね返され、全身の疲労を覚え、何度もくじけそうになりながら、投げ出すことができなかったのは、忙しい仕事の合間に時間をやりくりしてまでこの著者に作品を書かせた衝動は何だったのかという疑問である。
 小堀遠州は、天正七年(一五七九年)に近江の国に生まれた。織田信長に逆らった浅井家家臣の父を持ちながら、豊臣、徳川と権力が移りゆく激動の時代を生き抜き、茶人としては千利休、古田織部の流れを汲んで「綺麗さび」と言われる美の世界を確立する。徳川幕府では奉行職につき、桂離宮の御輿寄前庭、二条城二の丸庭園、南禅寺金地院の庭園など時代を代表する独創的な庭を多く残した。
 その六十九年の生涯を、医師らしい細密な筆で描く。戦乱の中、母から人間や道具を大切にする茶の心を教わった少年時代。徳川幕府成立後、外様大名が次々と改易される危機的状況で自分の仕事に専心した壮年時代。迷いも悟りも捨て自身が無一物になる「大有」の境地にたどりついた最晩年……。綿密な歴史考証をした作品には、時折、筆者が想像を膨らませた恋のエピソードも交えられる。
 その南禅寺金地院の庭園を、著者に案内されたことがある。敷き詰められた白砂の先に配された大小の石が、大海に広がる小島を連想させる枯山水だ。……が、海原をわざと遮るように、白砂の右隅に弧を描く飛び石が置かれていた。なぜか。幕府に仕える遠州は立場上、権力者の好みに合うオーソドックスな枯山水を設計した。その中で、飛び石の配置にさり気なく自分の好みをにじませたという。
 公と私。綺麗とさび。遠州の造形物には二面性がある。矛盾を一つのものに含み込む美の世界は、茶人と権力者との微妙な関係が生んだと、小説では見方を示す。千利休が創造した茶の湯は、豊臣秀吉に愛され広まった。やがて、わびを貫く利休は、天下統一後、華美に傾く秀吉に疎まれ切腹させられる。芸術はパトロンとなる庇護者がなければ発展しないが、芸術至上主義を貫くと寵愛を失う。遠州の選んだのは、時に権力におもねりながら、理想を追求する生き方だった。
 著者は内科医として、白血病や悪性リンパ腫などの研究をしてきた。医学界は矛盾に満ちている。治療を尽くしても、患者を救えないことがある。医療費削減で多忙さを増す勤務医に見切りをつけ、現場から逃げ出す若い才能を悔しい思いで見守ることもあった。自分の理想を簡単に実現できない現実が、粘り強く現実と折り合いをつけながら生きた遠州の二枚腰のたくましい軌跡を追うことを医師に浴させたのだ。
 実直な作品に、華やかさはないかもしれない。だが、この小説には著者にとって書かねばならない切実な動機がある。一茶人の生涯を文学作品に昇華させることで、老境に差し掛かった自らの生きる道を改めて見定めようとした苦闘の跡がにじむ。貴重な週末を執筆にあて、書きためた草稿を通勤の時間の推敲するその相貌を行間から感じるとき、文章の一つ一つから蒼く仄暗い炎がたぎり始めるのである。

『高見順の青春』坂本満津夫 著
朝日新聞 平成20年(2008年)5月4日

日記駆使し〝嵐〟の日々に光 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 最後の文士といわれた高見順は、ある意味では昭和文学の立役者的な存在だ。事実『昭和文学盛衰史』なる一冊も書いている。だが、その出生には暗い影がつきまとっていた。いわゆる私生児としてのそれであった。
 昭和五年、東京大学英文科を卒業。在学中、ダダイズム、マルクス主義などの影響を強く受け左傾。だが、昭和八年、治安維持法違反の疑いで検挙、その後転向して作家生活に入る。
 本書では、そうした高見の青春時代を、日記や手紙を駆使し、斬新な高見論にまとめている。何よりも、「です、ます」調の文体は中村光夫を思わせ、読みやすくしていることは否めず、著者自身そのことを認めている。
 たとえば、「高見の〝日記〟と〝詩〟と〝手紙〟は、小説の酵母なのです。醗酵する前のカオスというか、コアなのです」といったように、畳みかけるように進行させていく。そして、高見の作家としての生き方を「時代に絡み、自分に拗(す)ねていた」ととらえている。そうした高見の青春は、昭和八年に始まったとしている。
 その嵐のような青春は、彼が入獄中に妻が家を去り、出所してくると妻はいなかった。
 高見のみずみずしい感覚は、『樹木派』や『死の淵より』などの詩集を生んだ。また、一方では膨大な「日記」を残し、日記作家としても注目された。しかし、その背景には父母との軋轢(あつれき)があり、文字どおり嵐の青春を通過してきたのである。
 ところで、本書を通読すると、そこには昭和文学史が散見され、赤裸々な私生活ものぞかせている。また、中野重治との比較や、文学論争とケンカ好きな一面など、幅広く高見をとらえているところに納得できる。あるいは平野謙や江藤淳とのかかわり、『混濁の浪・わが一高時代』の紹介など、軽く語られているようでも重みがある。さらに秋子夫人のことなど、これまでの高見論に、見落とされてきた諸点を補綴(ほてい)され、ここにユニークな評論が完成されたことは特筆されるべきであろう。

『蝉神─せんしん』藤田泰彦 著
奈良新聞 平成20年(2008年)4月6日

再会した彼女は〝変態〟した 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 私と、日裏冴和巳(ひうら・さわみ)との十七年ぶりの再開。私(平井)は、東京駅から新幹線に乗りS駅で降り、東海道本線の普通列車でR駅まで行き、そこからローカル線を利用して、四つ目の蝉神(せみがみ)という名の無人駅で降りた。
 改札口を静かに通りぬけると、アスファルトの道が続いている。にわかに、降りそそぐみたいに蝉の声がする。幻聴なのだろうか。夜なのにめまいを感じ、ベンチに腰を下ろさずにはいられなかった。彼女は果たして迎えにくるのだろうか。十七年という時の流れは、彼女をどう変えているのか興味があった。
 だが、実のところ、彼女との再会は、ためらわずにはいられなかった。いっそのこと、会わずにおこうか。彼女も、すでに四十に近いはずだ。私の思考は、どうしても過去にさかのぼる。あのころ、彼女は私の部下で、与えられた仕事を無難にこなしていた。そんな彼女だったが、今はどうなのか。
 そして、再会した私は、蝉神神社へ参詣する。村の上部に「蝉神神社」と黒い墨で記された板が張り据えられ、社殿には格子が設けられていた。そんな彼女が憑依(ひょうい)し、最後は天に昇る。「楕円(だえん)形状の虹が綾(あや)なす様相の冴和巳は空中で一時(いっとき)停止し、まるで勾玉(まがたま)にも似る姿に変化しあたかも見つめるようにする」。衝撃を受けた私は、あぜんとして見つけるほかはない。
 ともかく、このようなストーリーを展開せしめた著者の背景には、古神道、仏教、道教、東アジアのシャーマニズムを信奉し、アニミズムを日々の心のよりどころとしていることが、何よりの証左となっている。
 一見、横溝正史の世界を思わせるところもあるが、冴和巳が蝉神の変態について語るあたりは迫真だ。蝉は蝶(ちょう)や蛾(が)と同様に変態し、蛹(さなぎ)の状態で静止した仮死の期間がなく、土中から自力ではい出し、数時間で脱皮して成虫、蝉となる。屍(しかばね)は抜け殻に該当する。彼女の変態の奥義は、ここにおいて真実語られている。

『小説 永井荷風』小島政二郎 著
週刊文春 文春図書館 私の読書日記 平成20年(2008年)3月13日号

荷風、岡崎京子、古本屋の魂 評者・鹿島茂(フランス文学者)

 X日X日
 新しく始まった連載の第一回目に成島柳北を選んだところ、どうしても『荷風全集』が必要になった。しかし、締め切りは切迫しているのに祭日のためどこの図書館も開いていない。そのとき、ふと靖国通り沿いの古書店の店頭に二十九巻本の『荷風全集』(岩波書店昭和三十九年刊)が積み上げてあったことを思い出した。押っ取り刀で駆けつけると、午後六時の閉店時間に間に合って、全巻買い込むことができた。価格はセットでなんと九千円。二十六巻本の全集なら五千円で売られている。いまや全集受難の時代で、たたき売り状態である。それでも売れないので、片端からツブシ(資源ゴミとして処分すること)になっているようだ。『荷風全集』をパラパラやっているうちに永井荷風の伝記が読みたくなった。父親の永井久一郎が共立女子大の前身の共立女子職業学校の設立者の一人だということもある。東京堂をクルージングすると、小島政二郎『小説 永井荷風』(鳥影社 2200円+税)が見つかった。
 小島政二郎とはまた懐かしい名前である。芥川龍之介・菊池寛の友人だったから、明治中期の生まれのはずだが、私が大学生だった頃には大正文壇最後の生き残りとしてまだ健在で、若い奥さんと二人で元気に週刊誌の対談ページを担当していたと記憶する。その後、名前を聞かなくなったと思っていたら、長患いの末、平成六年に他界していたのだ。甥である稲積光夫氏の「追記」によると、昭和四十七年にこの作品を脱稿したものの、永井家の許可が得られず、出版が頓挫したままになっていたのだという。
 高校生のときに読んだ評伝風の芥川龍之介論がおもしろかった記憶があったので、これもいけるのではないかとカンが働いたのだが、果たせるかな、大傑作であった。いや驚いた。これだけ適確に荷風の本質をついた評伝も珍しい。小島政二郎おそるべし。(後略)

さらに詳しい書評、その他の書評はこちら

『日本の現代作家12人の横顔』マンフレート・オステン 著 大杉洋 訳
毎日新聞 平成20年(2008年)2月10日

 予期せぬ本に出会いました。『日本の現代作家12人の横顔』という未知のドイツ人著者の新刊(大杉洋訳)。12人へのインタビューを基に書かれていますが、安部公房、三枝和子ら半数は既に故人。大江健三郎氏、村上春樹氏らのほか、大岡信氏、谷川俊太郎氏の詩人2人も含まれています。著者マンフレート・オステン氏は86年に東京のドイツ大使館に赴任した際、日本での「独文」人気の高さに驚き、母国への日本文学紹介を思い立ったとのこと。作家たちの意外な表情や発言の数々に、思わず引き込まれました。(一)

『小説 永井荷風』小島政二郎 著
毎日新聞 読書欄 平成20年(2008年)1月13日

評者・丸谷才一

………つい見落としていたが、読んでみるとおもしろいし、わたしが調べた限り川本三郎が『週刊朝日』で紹介したほかはどこも扱っていない。
 『小説 永井荷風』は三十数年前に完成していたものだが、永井家の許可が得られず、出版されなかった。著者が文学者永井荷風に絶大な尊敬を献げながら、人間としての彼に否定的なせいか。しかし小島は「血の冷たいエゴイスト」と痛烈に避難しながらも、アナトール・フランス『ボードレール論』の最後の一句を引いて総括する。『なるほど、人としてボードレールは嫌悪すべき人間であるという説に私も同意する。しかし、彼は詩人であった。それ故神で──いや、神に比すべきものであった』と。この両面を見る公平な態度が『小説 永井荷風』の第一の特質である。
 「小説」とは作者小島との関係が芯になっている荷風伝という意味で、つまり「私小説的」か。彼は『あめりか物語』に陶酔し、荷風に教わりたくて三田の文科にはいったのだが、終生認めてもらえなかった。当然この伝記には、熱烈な敬愛の念が酬いられなかった愛読者の恨み節の側面がある。しかし文学の鑑賞者としての小島の感覚が鋭いし、明治から昭和までの文学的好尚のなかで荷風の作風がどんなに際だっているかを語る話術はすごい。とりわけ鈍重退屈な自然主義全盛への文壇へ『あめりか物語』『ふらんす物語』をたずさえて再登場したころの清新な風趣を論じたくだりなど、文学史家には絶えて見られぬ芸だろう。この文学史的話術の妙が特色の第二か。ただし惜しいことに、『あめりか物語』と並ぶ傑作とする『墨東綺譚』についてはこういう語り方はしていない。あれは軍人支配の時代への厭がらせとして喝采を博したものなのに、小島には事情が見えていないらしい。そして『腕くらべ』『おかめ笹』を軽んずる態度は、小島の芸術が実は私小説であることを明らかにするはずだ。
 逸してはならないのは文壇ゴシップ集としての興趣である。たとえば永井荷風編集のころの『三田文学』の原稿料は『中央公論』よりもよかった。芥川龍之介は小島がいくら褒めても荷風を認めようとしなかった。ヨーロッパ帰りの美術史学者沢木四方吉は三田の文科を立て直すため、芥川を英文科の教授として招こうと企てた。折口信夫を迎えたのも沢木の案。新橋の芸者富松は荷風と別れたあと、若い美男の株屋、槙金一と親しくなったが、彼は小島の俳句仲間。そのせいでいろいろ耳に入ってくるのは……おや、残念ながらここで話を打ち切るしかない。

さらに詳しい書評、その他の書評はこちら

『小説 永井荷風』小島政二郎 著
週刊朝日 平成19年(2007年)11月16日

師と慕う荷風への愛憎が交錯する幻の本 評論家 川本三郎

 いわくつきの荷風本。
 昭和47年(1972)に校正も終わり、いよいよ出版という時に、永井家の許可が得られなかったために出版が出来なくなった。その幻の本が30年以上たって陽の目を見た。
 小島政二郎は東京の下町、下谷の生まれ。江戸っ子文士といわれた。芥川龍之介は菊池寛との交流を描いた自伝的小説『眼中の人』や文壇もの『鴎外・荷風・万太郎』、食の随筆『食いしん坊』などで知られる。
 小島は少年時代から同じ東京出身の永井荷風に傾倒。荷風が慶應義塾の教授になったので、荷風を追って慶應に入ったほど。(後略)

さらに詳しい書評、その他の書評はこちら

『ポーランド旅行』アルフレート・デーブリーン 著 岸本雅之 訳
産経新聞 平成19年(2007年)11月11日

 ドイツの作家A・デーブリーンは1924年、2カ月にわたるポーランド旅行をした。ワルシャワをはじめとする主だった都市をめぐり、詳細なルポを書いた。
 1924年はレーニンが死んだ年である。イタリア総選挙でファシスト党が勝利した。ドイツでは前年、ミュンヘンでナチスが暴動を起こし、ヒトラーが逮捕された。
 18世紀のポーランド分割以来、ポーランド人は「亡国の民」といわれた。王国が生まれしも異民族支配のもとだった。第一次世界大戦終了の1918年、念願の独立をはたした。以来6年、ドイツの作家が新生ポーランド共和国を深い関心とともに旅してまわった。
 80年以上前の旅行記に意味があるのか? いまなお読むにたえるのか? 読むにたえるし、大いに意味がある。80年以上ものちの読者にあてて書かれたかのように意味深い。(後略)

さらに詳しい書評、その他の書評はこちら

『風になった覚さん─グライダーで大空に夢を描いた男』久木田雅之 著
信濃毎日新聞 読書欄 平成19年(2007年)7月22日

 諏訪市出身で、日本学生航空連盟の指導員などとして、数千人の学生らにグライダーの操縦を教えた故原田覚一郎さん(1912-2001年)の伝記。80歳を超えてもグライダーに乗った「覚さん」の生涯を、同連盟元事務局長の著者が記した。
 覚さんが初めてグライダーに搭乗したのは、兵役を終えた直後の1934(昭和9)年。後に在野の考古学者として知られる幼なじみの藤森栄一さんに誘われ、霧ヶ峰で試乗した。
 その後、地元のグライダー研究会に所属。外国人専門家の講義を受けたり、各地の講習会に参加したりしながら実力を上げ、太平洋戦争中の42年には、当時の文部省に技官として採用された。だが、教え子たちは次々と戦場に向かい、自身も終戦間際の45年6月に陸軍から再度召集を受けてしまう。
 戦後、再びグライダーに携わったのは終戦から7年後の52年。指導員として学生を教え、埼玉県熊谷市の妻沼滑空場建設にも尽力した。学生が一人前の社会人として通用することを考えながら、声を荒げず丁寧に教え諭す指導法は、学生たちに慕われたという。
 戦前の訓練生が戦場で亡くなった経験から「平和な空が続くように」と祈り続けた覚さん。その名は、大学グライダー対抗戦に「原田覚一郎杯」として残されている。

さらに詳しい書評、その他の書評はこちら

『風船爆弾を作った日々』愛媛県立川之江高等女学校33回生の会 著
信濃毎日新聞 読書欄 平成19年(2007年)3月25日

 太平洋戦争末期、米国が原爆製造を目指した時期に、日本が国家プロジェクトとして全国の女学生を動員し、開発した“秘密兵器”があったのだという。巨大な気球に爆弾をつるし、偏西風に乗せて米国へ飛ばす兵器で、何と気球の外皮は和紙をこんにゃくのりで張り合わせたものだった。
 本書は風船爆弾づくりに動員された当時の生徒らが、作業に従事した思い出ををつづった文章を集めた。爆弾は361個が米国で目撃されたが、結局は山火事などを起こすにとどまったのだという。通常の常識では考えられない戦時体制の奇妙さを深く実感させる。

HOME>書評 戻る 2 1 次へ