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書評
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『井真成、長安に死す』岩下 壽之 著
サンデー毎日 2010年4月4日号

サンデーらいぶらりぃ 読みどき旬どき

 2004年、中国・西安市で発見された井真成の墓誌。奈良時代に遣唐留学生として中国に渡った彼はどういう人物だったのか? その謎に包まれた波乱の生涯に、在野の研究家が迫る。

『放浪のユダヤ人とエッセイ二篇』ヨーゼフ・ロート 著 平田達治 訳
週刊朝日 2009年8月7日号

話題の新刊 評者・姜 信子

 ユダヤ人作家ヨーゼフ・ロートが言うことには、人間とは、現実が恐ろしいものであるほどに、目をつぶり、より恐ろしい運命へと流されていく生き物であるらしい。
 ナチスが台頭しつつある欧州で、わずかな希望を求めて彷徨うユダヤ人たちを、ロートはじっと見つめている。後に彼らを襲う運命を知る予言者のように言葉を紡ぐ。
 なぜユダヤ人は追われるのか? 力ある大きなものにまつろわぬからだ。では、まつろう者に安住はあるのか? いや、それもまた、大きなものとともに滅びの運命へと流されてゆく、もうひとつの放浪。そうロートは言う。いずれにせよ、「人は放浪して行く、──いや、よろめいていくのだ、笑止千万な希望へと」。
 目をつぶるな。現実を、恐怖を、絶望を凝視せよ。そんなロートの声は、真の希望のありかを知る放浪の予言者が、すべての人間に向けた痛切な叫びのようにも響く。

『グリムにおける魔女とユダヤ人─メルヒェン・伝説・神話』奈倉洋子 著
こどもとしょかん 2009年夏号

資料室の本

 グリムの童話集、伝説集、神話学に悪として登場する魔女やユダヤ人に注目し、版を追って表現が変化する過程やその要因を考察。独文学・文化の専門家が自身の論文を加筆修正。

『みどりのシャワー』久保田昭三 著
望星 2009年2月号

新刊紹介

 詩人であり、童話作家である著者が、日常の中で感じたこと、自然とのふれあいの中で思ったことなどを表現した詩集。子どもたちに贈るこれらの詩は、素朴でやわらかい。読み手の心にストレートに伝わってくる。

『浦賀与力 中島三郎助伝』木村紀八郎 著
産経新聞 書評倶楽部 平成20年(2008年)11月21日

武士道に殉じた姿を称賛 評者・中島誠之助(古美術鑑定家・エッセイスト)

 函館市の市街地に中島町という一郭がある。郵便番号では040-0014で表示されている。この町名が最後の武士と称えられ多くの人々に感銘を与えた函館戦争の勇者、中島三郎助を記念して命名されたことを知る人は少ない。
 この人は三浦半島で、浦賀奉行与力の子として文政4年(1821)年に生まれている。与力という役職は徳川幕府の機構のなかでは最も身分の低い幕臣である。
 その人が徳川家に最後まで尽くした忠節の武士として、明治政府の元勲たちに「幕臣中島三郎助、函館戦争で戦死忠勇比類なし」と言わしめ、その武士道に殉じた姿を称賛されているのだ。
 アメリカのペリー艦隊が浦賀の沖へ来航したのは嘉永6(1853)年で三郎助33歳のときになる。旗艦サスクエハナ号に真っ先に乗り付けて交渉に当たったのは月番の応接係だったこの人である。
 そして三郎助は激動する幕末期に幕府海軍創設の最前線に身をおき、軍艦の建造から防衛のための台場造成と大砲の鋳造などすべてにおいて関わっているのだ。
 幕府の異国船対応と海軍伝習所の開設、王政復古と薩長勢力の台頭など激動の時代をよそにして、三郎助は忠実な能吏として淡々と己の職務を果たしていく。
 やがて来る幕府の瓦解。海軍副総裁、榎本武揚は軍艦の新政府軍への引き渡しを拒み函館行きを決行する。幕臣であり徳川家に恩顧を受けた三郎助は2児と共に乗船して江戸を後にする。
 五稜郭陣営での榎本軍最後の軍議では将官たちに降伏を唱え、自分は断固として守備陣地を守り敵弾に当たり討ち死にをする。この本は惜しまれて止まぬこのような男がいたということだけでも、現代人に知ってもらいたいという熱望の書である。

『千道安』斎藤史子 著
奈良新聞 平成20年(2008年)9月21日

娘の目通し波乱の人生語る 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 とにかく冗舌体で、次から次へと言葉がつながっていく。父・千利休の子として生まれた千道安(せんの・どうあん)。茶道の家に生まれたしがらみと宿命の中で悶々(もんもん)と悩む。その姿を、娘の目を通して見事に描く。
 登場人物も多彩で、信長・秀吉はもとより、紹鴎・宗湛らの茶人をはじめ、長宗我部元親、三好長慶などの戦国武将が見え隠れする。戦乱の世に、いかに生きおおせるかは各人の実力と運が働くことは言うまでもないが、そんな中にあって、茶人たちも同じこと、生き延びることは必定であった。
 だが、父・利休の自刃は何もかもを狂わせ、後々までも尾を引くことになる。それにしても、秀吉の権勢をほしいままにする態度は全く許しがたいが、子の道安にとっても、父の死はいかにも無念であった。
 ここでは、運命に翻弄(ほんろう)される道安の苦悩は、痛いほど分かるが、しょせん運命に逆らうことはできぬ。編中、ほっとするところは、出奔(しゅっぽん)していた道安が、ひょっこりと帰ってくるところである。それも帰路の途中で茶碗を買ってくるところは、全く救われる気がするから不思議だ。
 茶碗は、茶人にとって命であろう。道安は道具屋が持ってきた一つの茶碗に見入ってしまう。すると、道具屋は「さすがに、お目が高い」というが、やはり茶人には、いいものが一目で分かるのである。
 ところで、本作品は茶人を描きつつ、戦国の世を余さずにとらえ、歴史絵巻の風情を添えていることはいうまでもないが、語り手としての娘の犀利(さいり)な眼が、全体のリード役として優れていることは、特筆すべきであろう。
 ともあれ、茶道を語り、歴史を語りながら政治の複雑な裏側にまで立ち入るなど、単調さを避けるために意外な工夫が施されていることも看取できよう。そして、読んでいて、うっかり見過ごしてしまう巧みなナレーションに感心した。茶の道はまた人の道でもある。

『イタリア映画史入門1905─2003』ジャン・ピエロ・ブルネッタ 著 川本英明 訳
産経新聞 平成20年(2008年)9月14日

 映画は19世紀に生まれ、世界各地で産業として発達した。イタリアは、そんな映画大国の一つである。本書は、20世紀初頭のサイレント時代から21世紀までを網羅した決定版。巨匠やスターの足跡も分かりやすく紹介されている。
 紙数が割かれているのは1960年代だ。「世界の映画市場でイタリア映画が躍進する気運」が高まった時代だった。60年には「甘い生活」「若者のすべて」などの傑作が製作され、その後も「荒野の用心棒」や「夜」など映画史に名を刻む作品が送り出された。ソフィア・ローレンが世界的な女優の地位を確立するのもこのころだ。最近は世界市場で元気のないイタリア映画だが、いかに偉大だったかがよく分かる。巻末には年表も。ファンなら書棚に欲しい一冊。

『否定詩学』尾張充典 著
奈良新聞 平成20年(2008年)8月17日

カフカ作品再認識の道導く 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 フランツ・カフカの名を聞いてからすでに久しい。だがカフカについて、あるいはカフカの作品についていかほどのことを知っているだろうか。本書ではそうした疑問に対し、新しい角度から解明した事柄を語りかけてくれる。
 しかし、それらは決して容易ではなく、むしろ難解でさえある。けれども、述べられた言々句々を丹念にたどっていくところに読者としての義務があるのであろう。それは巻かれた時計のねじを解きほぐしていくように、少しずつ理解していく以外に方法はあるまい。
 ところで、カフカは一風変わった創作態度をとっていた。すなわち「カフカは、日記や手紙で、繰り返し自分の著作活動に言及し、様々なメタファーを用いて自分の創作の原理をそのつど打ち立てていた」とするのがそれであるが、ほかにも「カフカの創作行為を語る際、妊娠の比喩(ひゆ)には注意が必要である。というのも、彼の作家としての基盤を形勢した物語『判決』の成立の際にも、出産のメタファーが用いられていたからだ」と述べられている。
 このように、作品内容はもちろんであるが、この創作行為においては、ユニークな考えを持っていたことは、いま触れた通りである。さらに、「このように彼の書く行為は、射精、懐胎、出産と、両性の三つの行為が重なった生殖行為と把握される」とし「それを、挿入と受胎を経て出産へと至る文学の両性具有的な融合と見ることもできるかもしれない」と指摘されている。
 もし、このような見地に立って『変身』をはじめ『流刑地にて』はいうに及ばず『うた歌いヨゼフィーネ』『巣穴』『ある犬の研究』『断食芸人』などを読みなおしてみると、これまでと違ったカフカの印象が生まれてくるに違いない。
 本書はそうした意味において、これまでにはあまり試みられなかった方法で、カフカ再認識への道を指し示された優れたオマージュではなかったかと愚考されるのである。

『千道安』斎藤史子 著
河北新報 平成20年(2008年)7月28日

茶の湯の精神性丹念に

 偉大な茶人・千利休の嫡子として生まれ、家庭の事情や利休と豊臣秀吉の確執などに翻弄(ほんろう)されながらも、茶の湯を究めた千道安(せん・どうあん)=1546─1607年=。その波瀾(はらん)万丈の生涯を、一人娘の静の視点を通して描いた歴史小説だ。
 著者は、仙台市出身の小説家斎藤史子さん(和歌山県高野町)。第七回大阪女性文芸賞受賞者で日本ペンクラブ会員。茶の湯の世界を表現した小説の深さには定評がある。
 道安は父を超えたいと思うあまり、利休に激しい愛憎の念を抱きながら、葛藤(かっとう)を乗り越えていく。本著では嫡子でありながら、利休の系譜から外された無念さや秀吉と利休の確執、自死事件など、道安の数奇な運命をつづる。
 最終的には堺の地で利休の生家と侘茶(わびちゃ)を継承する道安。著者は、簡潔さの中に力強さを備えた茶の湯を究めた姿と精神性を丹念に浮き彫りにした。
 静を語り手にした構成が奏功し、道安の人間像が思いやりに包まれて描かれている。さらに、女性であるが故に父の茶を継げなかった静自身の口惜しさもひしひしと伝わってくる。

『イタリア映画史入門1905─2003』ジャン・ピエロ・ブルネッタ 著 川本英明 訳
朝日新聞 平成20年(2008年)7月27日

約百年のイタリア映画史充実した資料・年表で解説

 ビスコンティやフェリーニら数々の巨匠監督を輩出したイタリアの映画史を詳説する『イタリア映画史入門1905─2003』(ジャン・ピエロ・ブルネッタ著、川本英明訳)が鳥影社から出版された。イタリア映画の原点といわれる「ローマ占領」(1905年)に始まる第1部「無声(サイレント)映画の時代」から第5部「70年代から現代まで」におよぶふんだんな解説に加え、年表、人名索引、映画のタイトル索引など、資料も充実している。

『千道安』斎藤史子 著
週刊朝日 週刊図書館 平成20年(2008年)7月11日号

 茶人・千利休には道安という実子がいた。道安は茶人としても活躍し、利休の商いは継いだが、茶は再婚相手の連れ子が継承する。そこに何があったのか。道安の娘の視点で、利休の自刃や茶の湯の世界、道安を軸にした利休一族の盛衰を描いた小説。

『愛知県宝飯郡・前芝村のころ』庄田綾子 著
東日新聞 平成20年(2008年)6月26日

 豊橋市前芝町の旧家北河家六代の三作は明治16年、さかと結婚、三作はさかの弟2人を連れ、伊勢・桑名等渥美半島、三河、伊勢湾を航海して廻船業を営み、相当の財を成した。
 前芝では明治33年、北河文吉が製糸業に着手、三作の一人娘・さわは明治36年、渥美半島百々の旧家清水家12代・道太郎の弟・耕次郎を婿に迎え、耕次郎は日露戦争に従軍、功七級金鵄勲章をもらって中国から帰還、北河製糸場を始めた。
 耕次郎の兄・道太郎は■(記号に中)、いとこの熊太郎は■(○に中)製糸を始め、姉せいは夫と共に■(○に一)尾嶋製糸、妹てつは中神家に嫁いで■(記号に中)製糸、その妹きくゑは白井家に嫁■(○にキ)製糸を操業するなど、兄弟は皆、製糸一族となった。
 さわは8人の子を産み、明治37年に生まれた武が8代目を継ぎ、昭和6年生まれの昭男が9代目となった。
 著者の庄田(北河)綾子は昭男に続く長女として昭和8年に生まれ、昭和30年、商社マンの夫と結婚、上京するまで前芝に住んだ。
 昭和18年、企業整備で製糸を閉じた北河製糸は軍需工場となったが、19年12月の東南海地震では煙突が倒れ、操業できなくなった。
 武の妻で綾子の母・静子は千郷村稲木(現・新城市)の素封家・藤田家の出で、母の妹・まつゑは気賀の杉浦家に嫁ぎ、幼い綾子は新城、気賀に遊びに行った思い出がある。
 多くの女工さんがいた北河製糸の寄宿舎は2棟、土蔵もあり、父は女工集めのため、奥三河の山間地に足を運び、隠居した祖父・耕次郎は前芝・蛤珠手、小坂井・東漸寺の総代、神社の氏子総代を務め、跡を父・武が継いだ。耕次郎は昭和53年、102歳の長寿を全うした。
 前芝の歴史と一族の人々の思い出をつづった著者の庄田綾子の書道名は翠苑、田中松亭、前芝出身で遠戚(せき)の松下芝堂に師事、03年には日展に入選、名古屋に在住する現在も書道界の重鎮として指導に当たっている。

『運慶の謎』山野貞子 著
朝日新聞 読書欄 平成20年(2008年)6月22日

いざ、鎌倉 戦乱の歴史をしのび、古都を歩く 評者・大上朝美

 アジサイのシーズン。鎌倉に観光客の姿は絶えない。しっとりとした古都のたたずまいの底にはしかし、戦乱と血の歴史が潜んでいる。(中略)
 鎌倉期を代表する仏師・運慶の生涯を小説仕立てで描く『運慶の謎』でも、運慶が生きた平安末から鎌倉初期が、いかに戦乱に満ちていたかが縦軸になる。寺が焼かれ、仏像が焼かれ、しかしその破壊の中から再生への希求も生まれるのだ。運慶は「本当に神仏はあるのか」と疑う仏師として登場する。(後略)

僧兵が争いを繰り広げる仏教界に不信を抱き、後に奈良・東大寺南大門の仁王像を合作する快慶には不快感を持ち、妻以外の女性との間に盛んに子をなす。精力的で人間くさい運慶像が描かれる。

『千道安』斎藤史子 著
中外日報 読書欄 平成20年(2008年)5月27日

父の茶£エえよう…嫡男のもがき

 千道安(一五四六〜一六〇七)は、千宗易(利休)の嫡男である。千家の本家である堺千家を継いだが、男子がなかったため道安の系譜は途絶えた。今日に続く三千家は、利休の養子である少庵から続いている。少庵は道安の義弟に当たり、両者は茶人として比較されることも多いが、道安関係の資料は少なく、今日伝えられているのは少庵側から見た道安像だとされる。
 著者はこれまで、茶人の世界を描いた『草庵に光さす・山上宗二異聞』と『幻の茶器・小説織田有楽斎』を世に問うてきた。
 これらの取材の過程で、利休の家庭の事情、前妻と後妻とその子供たちの確執を知り、利休の人間くささに親しみを覚えると同時に興味を持ったという。
 前妻の子である道安は、後に和解するも父利休と折り合いが悪く家を出て、茶の世界から一時距離を置く。利休の高弟・山上宗二の取りなしで茶の世界に戻る。道安の父の茶を超えようともがく生きざまや、少庵を千家に入れた父との確執、少庵に対する複雑な思いが織りなす人間模様が展開する。
 道安の心の葛藤(かっとう)を娘静の語りで描き、女性であるため父の茶を継げなかった静の無念の思いが行間ににじむ。

『小堀遠州』中尾實信 著
奈良新聞 平成20年(2008年)5月25日

茶道で乱世生きた歴史絵巻 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 茶道を身上として乱世を生きようとした小堀遠州。世を渡ることの至難さは、一通りの苦労では歯が立たぬ。才能、機知、胆力、決断、およそ考えられるものを、総力をあげてかからぬと大変なことになる。
 幼時から父正次から、いろいろなことを学びながら成長してきたが、人生における謎はいよいよ深まるばかり。
 本書は著者が「月刊遠州」に五年にわたり連載した「小説孤蓬平心」をまとめたものである。その登場人物の多数はもとより、主人公小堀遠州を縦軸に、歴史の流れを横軸にした。みごとな歴史絵巻になっていることは、いうまでもないだろう。うれしいことに奈良の称名寺の村田珠光も登場する。
 また、転害町の漆屋の松尾源三郎をはじめ、馬借集団を駆使して巨富を蓄えた古市澄胤等々、大和の住民にとってはおなじみの人物たちである。
 遠州は、ある意味ではマルチ人間であったといえるかもしれない。のちに作事奉公にもなるが、建築のことにも精通していたのだ。茶道における細かな神経が、建築の世界にも通用したということだ。
 もちろん作庭もするから庭師としても一流である。それは方々の庭を見て回り、みずからの目を養うことであった。武将や茶人たちとの語らいも重要で、時にはまつりごとに関する質問を受けることもあった。
 一方では書をはじめ、美術品に対する知識も求められたり、ディレッタントとしての素養が必要であったから、神経の休まるときが少なかったといえる。
 歴史の流れは、関ヶ原の合戦が終わり、豊臣秀吉の時代が終わり、徳川家康の登場によって徳川時代の幕開けとなる。その間、めまぐるしい人事の更迭があり、複雑な人間関係を見せられる。
 しょせん、乱世の時代を、どう生ききるかは、永遠の課題であろう。人を倒し、踏み越えていくのは、不変の真理であり、善意のみでは生き残れぬことを告げている。ある意味では人生不可解だ。ここに空前の歴史絵巻がある。

『小堀遠州』中尾實信 著
週刊読書人 平成20年(2008年)5月9日

一茶人の生涯を描く 評者・待田晋哉(読売新聞大阪本社記者)

 桃山から江戸初期にかけ各地の庭の造営に携わった茶人の評伝小説を、五年かかりで執筆した著者は、滋賀県の民間病院で副院長として働いている。二段組みで八百五十三ページに及ぶ大著を読み進めるのは、峻厳な岩山にザイルを立てる作業に似ていた。堅い岩盤に跳ね返され、全身の疲労を覚え、何度もくじけそうになりながら、投げ出すことができなかったのは、忙しい仕事の合間に時間をやりくりしてまでこの著者に作品を書かせた衝動は何だったのかという疑問である。
 小堀遠州は、天正七年(一五七九年)に近江の国に生まれた。織田信長に逆らった浅井家家臣の父を持ちながら、豊臣、徳川と権力が移りゆく激動の時代を生き抜き、茶人としては千利休、古田織部の流れを汲んで「綺麗さび」と言われる美の世界を確立する。徳川幕府では奉行職につき、桂離宮の御輿寄前庭、二条城二の丸庭園、南禅寺金地院の庭園など時代を代表する独創的な庭を多く残した。
 その六十九年の生涯を、医師らしい細密な筆で描く。戦乱の中、母から人間や道具を大切にする茶の心を教わった少年時代。徳川幕府成立後、外様大名が次々と改易される危機的状況で自分の仕事に専心した壮年時代。迷いも悟りも捨て自身が無一物になる「大有」の境地にたどりついた最晩年……。綿密な歴史考証をした作品には、時折、筆者が想像を膨らませた恋のエピソードも交えられる。
 その南禅寺金地院の庭園を、著者に案内されたことがある。敷き詰められた白砂の先に配された大小の石が、大海に広がる小島を連想させる枯山水だ。……が、海原をわざと遮るように、白砂の右隅に弧を描く飛び石が置かれていた。なぜか。幕府に仕える遠州は立場上、権力者の好みに合うオーソドックスな枯山水を設計した。その中で、飛び石の配置にさり気なく自分の好みをにじませたという。
 公と私。綺麗とさび。遠州の造形物には二面性がある。矛盾を一つのものに含み込む美の世界は、茶人と権力者との微妙な関係が生んだと、小説では見方を示す。千利休が創造した茶の湯は、豊臣秀吉に愛され広まった。やがて、わびを貫く利休は、天下統一後、華美に傾く秀吉に疎まれ切腹させられる。芸術はパトロンとなる庇護者がなければ発展しないが、芸術至上主義を貫くと寵愛を失う。遠州の選んだのは、時に権力におもねりながら、理想を追求する生き方だった。
 著者は内科医として、白血病や悪性リンパ腫などの研究をしてきた。医学界は矛盾に満ちている。治療を尽くしても、患者を救えないことがある。医療費削減で多忙さを増す勤務医に見切りをつけ、現場から逃げ出す若い才能を悔しい思いで見守ることもあった。自分の理想を簡単に実現できない現実が、粘り強く現実と折り合いをつけながら生きた遠州の二枚腰のたくましい軌跡を追うことを医師に浴させたのだ。
 実直な作品に、華やかさはないかもしれない。だが、この小説には著者にとって書かねばならない切実な動機がある。一茶人の生涯を文学作品に昇華させることで、老境に差し掛かった自らの生きる道を改めて見定めようとした苦闘の跡がにじむ。貴重な週末を執筆にあて、書きためた草稿を通勤の時間の推敲するその相貌を行間から感じるとき、文章の一つ一つから蒼く仄暗い炎がたぎり始めるのである。

『高見順の青春』坂本満津夫 著
朝日新聞 平成20年(2008年)5月4日

日記駆使し嵐≠フ日々に光 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 最後の文士といわれた高見順は、ある意味では昭和文学の立役者的な存在だ。事実『昭和文学盛衰史』なる一冊も書いている。だが、その出生には暗い影がつきまとっていた。いわゆる私生児としてのそれであった。
 昭和五年、東京大学英文科を卒業。在学中、ダダイズム、マルクス主義などの影響を強く受け左傾。だが、昭和八年、治安維持法違反の疑いで検挙、その後転向して作家生活に入る。
 本書では、そうした高見の青春時代を、日記や手紙を駆使し、斬新な高見論にまとめている。何よりも、「です、ます」調の文体は中村光夫を思わせ、読みやすくしていることは否めず、著者自身そのことを認めている。
 たとえば、「高見の日記≠ニ詩≠ニ手紙≠ヘ、小説の酵母なのです。醗酵する前のカオスというか、コアなのです」といったように、畳みかけるように進行させていく。そして、高見の作家としての生き方を「時代に絡み、自分に拗(す)ねていた」ととらえている。そうした高見の青春は、昭和八年に始まったとしている。
 その嵐のような青春は、彼が入獄中に妻が家を去り、出所してくると妻はいなかった。
 高見のみずみずしい感覚は、『樹木派』や『死の淵より』などの詩集を生んだ。また、一方では膨大な「日記」を残し、日記作家としても注目された。しかし、その背景には父母との軋轢(あつれき)があり、文字どおり嵐の青春を通過してきたのである。
 ところで、本書を通読すると、そこには昭和文学史が散見され、赤裸々な私生活ものぞかせている。また、中野重治との比較や、文学論争とケンカ好きな一面など、幅広く高見をとらえているところに納得できる。あるいは平野謙や江藤淳とのかかわり、『混濁の浪・わが一高時代』の紹介など、軽く語られているようでも重みがある。さらに秋子夫人のことなど、これまでの高見論に、見落とされてきた諸点を補綴(ほてい)され、ここにユニークな評論が完成されたことは特筆されるべきであろう。

『蝉神─せんしん』藤田泰彦 著
奈良新聞 平成20年(2008年)4月6日

再会した彼女は変態≠オた 評者・嘉瀬井整夫(文芸評論家)

 私と、日裏冴和巳(ひうら・さわみ)との十七年ぶりの再開。私(平井)は、東京駅から新幹線に乗りS駅で降り、東海道本線の普通列車でR駅まで行き、そこからローカル線を利用して、四つ目の蝉神(せみがみ)という名の無人駅で降りた。
 改札口を静かに通りぬけると、アスファルトの道が続いている。にわかに、降りそそぐみたいに蝉の声がする。幻聴なのだろうか。夜なのにめまいを感じ、ベンチに腰を下ろさずにはいられなかった。彼女は果たして迎えにくるのだろうか。十七年という時の流れは、彼女をどう変えているのか興味があった。
 だが、実のところ、彼女との再会は、ためらわずにはいられなかった。いっそのこと、会わずにおこうか。彼女も、すでに四十に近いはずだ。私の思考は、どうしても過去にさかのぼる。あのころ、彼女は私の部下で、与えられた仕事を無難にこなしていた。そんな彼女だったが、今はどうなのか。
 そして、再会した私は、蝉神神社へ参詣する。村の上部に「蝉神神社」と黒い墨で記された板が張り据えられ、社殿には格子が設けられていた。そんな彼女が憑依(ひょうい)し、最後は天に昇る。「楕円(だえん)形状の虹が綾(あや)なす様相の冴和巳は空中で一時(いっとき)停止し、まるで勾玉(まがたま)にも似る姿に変化しあたかも見つめるようにする」。衝撃を受けた私は、あぜんとして見つけるほかはない。
 ともかく、このようなストーリーを展開せしめた著者の背景には、古神道、仏教、道教、東アジアのシャーマニズムを信奉し、アニミズムを日々の心のよりどころとしていることが、何よりの証左となっている。
 一見、横溝正史の世界を思わせるところもあるが、冴和巳が蝉神の変態について語るあたりは迫真だ。蝉は蝶(ちょう)や蛾(が)と同様に変態し、蛹(さなぎ)の状態で静止した仮死の期間がなく、土中から自力ではい出し、数時間で脱皮して成虫、蝉となる。屍(しかばね)は抜け殻に該当する。彼女の変態の奥義は、ここにおいて真実語られている。

『小説 永井荷風』小島政二郎 著
週刊文春 文春図書館 私の読書日記 平成20年(2008年)3月13日号

荷風、岡崎京子、古本屋の魂 評者・鹿島茂(フランス文学者)

 X日X日
 新しく始まった連載の第一回目に成島柳北を選んだところ、どうしても『荷風全集』が必要になった。しかし、締め切りは切迫しているのに祭日のためどこの図書館も開いていない。そのとき、ふと靖国通り沿いの古書店の店頭に二十九巻本の『荷風全集』(岩波書店昭和三十九年刊)が積み上げてあったことを思い出した。押っ取り刀で駆けつけると、午後六時の閉店時間に間に合って、全巻買い込むことができた。価格はセットでなんと九千円。二十六巻本の全集なら五千円で売られている。いまや全集受難の時代で、たたき売り状態である。それでも売れないので、片端からツブシ(資源ゴミとして処分すること)になっているようだ。『荷風全集』をパラパラやっているうちに永井荷風の伝記が読みたくなった。父親の永井久一郎が共立女子大の前身の共立女子職業学校の設立者の一人だということもある。東京堂をクルージングすると、小島政二郎『小説 永井荷風』(鳥影社 2200円+税)が見つかった。
 小島政二郎とはまた懐かしい名前である。芥川龍之介・菊池寛の友人だったから、明治中期の生まれのはずだが、私が大学生だった頃には大正文壇最後の生き残りとしてまだ健在で、若い奥さんと二人で元気に週刊誌の対談ページを担当していたと記憶する。その後、名前を聞かなくなったと思っていたら、長患いの末、平成六年に他界していたのだ。甥である稲積光夫氏の「追記」によると、昭和四十七年にこの作品を脱稿したものの、永井家の許可が得られず、出版が頓挫したままになっていたのだという。
 高校生のときに読んだ評伝風の芥川龍之介論がおもしろかった記憶があったので、これもいけるのではないかとカンが働いたのだが、果たせるかな、大傑作であった。いや驚いた。これだけ適確に荷風の本質をついた評伝も珍しい。小島政二郎おそるべし。(後略)

さらに詳しい書評、その他の書評はこちら

『日本の現代作家12人の横顔』マンフレート・オステン 著 大杉洋 訳
毎日新聞 平成20年(2008年)2月10日

 予期せぬ本に出会いました。『日本の現代作家12人の横顔』という未知のドイツ人著者の新刊(大杉洋訳)。12人へのインタビューを基に書かれていますが、安部公房、三枝和子ら半数は既に故人。大江健三郎氏、村上春樹氏らのほか、大岡信氏、谷川俊太郎氏の詩人2人も含まれています。著者マンフレート・オステン氏は86年に東京のドイツ大使館に赴任した際、日本での「独文」人気の高さに驚き、母国への日本文学紹介を思い立ったとのこと。作家たちの意外な表情や発言の数々に、思わず引き込まれました。(一)

『小説 永井荷風』小島政二郎 著
毎日新聞 読書欄 平成20年(2008年)1月13日

評者・丸谷才一

………つい見落としていたが、読んでみるとおもしろいし、わたしが調べた限り川本三郎が『週刊朝日』で紹介したほかはどこも扱っていない。
 『小説 永井荷風』は三十数年前に完成していたものだが、永井家の許可が得られず、出版されなかった。著者が文学者永井荷風に絶大な尊敬を献げながら、人間としての彼に否定的なせいか。しかし小島は「血の冷たいエゴイスト」と痛烈に避難しながらも、アナトール・フランス『ボードレール論』の最後の一句を引いて総括する。『なるほど、人としてボードレールは嫌悪すべき人間であるという説に私も同意する。しかし、彼は詩人であった。それ故神で──いや、神に比すべきものであった』と。この両面を見る公平な態度が『小説 永井荷風』の第一の特質である。
 「小説」とは作者小島との関係が芯になっている荷風伝という意味で、つまり「私小説的」か。彼は『あめりか物語』に陶酔し、荷風に教わりたくて三田の文科にはいったのだが、終生認めてもらえなかった。当然この伝記には、熱烈な敬愛の念が酬いられなかった愛読者の恨み節の側面がある。しかし文学の鑑賞者としての小島の感覚が鋭いし、明治から昭和までの文学的好尚のなかで荷風の作風がどんなに際だっているかを語る話術はすごい。とりわけ鈍重退屈な自然主義全盛への文壇へ『あめりか物語』『ふらんす物語』をたずさえて再登場したころの清新な風趣を論じたくだりなど、文学史家には絶えて見られぬ芸だろう。この文学史的話術の妙が特色の第二か。ただし惜しいことに、『あめりか物語』と並ぶ傑作とする『墨東綺譚』についてはこういう語り方はしていない。あれは軍人支配の時代への厭がらせとして喝采を博したものなのに、小島には事情が見えていないらしい。そして『腕くらべ』『おかめ笹』を軽んずる態度は、小島の芸術が実は私小説であることを明らかにするはずだ。
 逸してはならないのは文壇ゴシップ集としての興趣である。たとえば永井荷風編集のころの『三田文学』の原稿料は『中央公論』よりもよかった。芥川龍之介は小島がいくら褒めても荷風を認めようとしなかった。ヨーロッパ帰りの美術史学者沢木四方吉は三田の文科を立て直すため、芥川を英文科の教授として招こうと企てた。折口信夫を迎えたのも沢木の案。新橋の芸者富松は荷風と別れたあと、若い美男の株屋、槙金一と親しくなったが、彼は小島の俳句仲間。そのせいでいろいろ耳に入ってくるのは……おや、残念ながらここで話を打ち切るしかない。

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『小説 永井荷風』小島政二郎 著
週刊朝日 平成19年(2007年)11月16日

師と慕う荷風への愛憎が交錯する幻の本 評論家 川本三郎

 いわくつきの荷風本。
 昭和47年(1972)に校正も終わり、いよいよ出版という時に、永井家の許可が得られなかったために出版が出来なくなった。その幻の本が30年以上たって陽の目を見た。
 小島政二郎は東京の下町、下谷の生まれ。江戸っ子文士といわれた。芥川龍之介は菊池寛との交流を描いた自伝的小説『眼中の人』や文壇もの『鴎外・荷風・万太郎』、食の随筆『食いしん坊』などで知られる。
 小島は少年時代から同じ東京出身の永井荷風に傾倒。荷風が慶應義塾の教授になったので、荷風を追って慶應に入ったほど。(後略)

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『ポーランド旅行』アルフレート・デーブリーン 著 岸本雅之 訳
産経新聞 平成19年(2007年)11月11日

 ドイツの作家A・デーブリーンは1924年、2カ月にわたるポーランド旅行をした。ワルシャワをはじめとする主だった都市をめぐり、詳細なルポを書いた。
 1924年はレーニンが死んだ年である。イタリア総選挙でファシスト党が勝利した。ドイツでは前年、ミュンヘンでナチスが暴動を起こし、ヒトラーが逮捕された。
 18世紀のポーランド分割以来、ポーランド人は「亡国の民」といわれた。王国が生まれしも異民族支配のもとだった。第一次世界大戦終了の1918年、念願の独立をはたした。以来6年、ドイツの作家が新生ポーランド共和国を深い関心とともに旅してまわった。
 80年以上前の旅行記に意味があるのか? いまなお読むにたえるのか? 読むにたえるし、大いに意味がある。80年以上ものちの読者にあてて書かれたかのように意味深い。(後略)

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『風になった覚さん─グライダーで大空に夢を描いた男』久木田雅之 著
信濃毎日新聞 読書欄 平成19年(2007年)7月22日

 諏訪市出身で、日本学生航空連盟の指導員などとして、数千人の学生らにグライダーの操縦を教えた故原田覚一郎さん(1912−2001年)の伝記。80歳を超えてもグライダーに乗った「覚さん」の生涯を、同連盟元事務局長の著者が記した。
 覚さんが初めてグライダーに搭乗したのは、兵役を終えた直後の1934(昭和9)年。後に在野の考古学者として知られる幼なじみの藤森栄一さんに誘われ、霧ヶ峰で試乗した。
 その後、地元のグライダー研究会に所属。外国人専門家の講義を受けたり、各地の講習会に参加したりしながら実力を上げ、太平洋戦争中の42年には、当時の文部省に技官として採用された。だが、教え子たちは次々と戦場に向かい、自身も終戦間際の45年6月に陸軍から再度召集を受けてしまう。
 戦後、再びグライダーに携わったのは終戦から7年後の52年。指導員として学生を教え、埼玉県熊谷市の妻沼滑空場建設にも尽力した。学生が一人前の社会人として通用することを考えながら、声を荒げず丁寧に教え諭す指導法は、学生たちに慕われたという。
 戦前の訓練生が戦場で亡くなった経験から「平和な空が続くように」と祈り続けた覚さん。その名は、大学グライダー対抗戦に「原田覚一郎杯」として残されている。

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『風船爆弾を作った日々』愛媛県立川之江高等女学校33回生の会 著
信濃毎日新聞 読書欄 平成19年(2007年)3月25日

 太平洋戦争末期、米国が原爆製造を目指した時期に、日本が国家プロジェクトとして全国の女学生を動員し、開発した“秘密兵器”があったのだという。巨大な気球に爆弾をつるし、偏西風に乗せて米国へ飛ばす兵器で、何と気球の外皮は和紙をこんにゃくのりで張り合わせたものだった。
 本書は風船爆弾づくりに動員された当時の生徒らが、作業に従事した思い出ををつづった文章を集めた。爆弾は361個が米国で目撃されたが、結局は山火事などを起こすにとどまったのだという。通常の常識では考えられない戦時体制の奇妙さを深く実感させる。

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