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書評
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『小説 永井荷風』小島政二郎 著
毎日新聞 読書欄 平成20年(2008年)1月13日

評者・丸谷才一

………つい見落としていたが、読んでみるとおもしろいし、わたしが調べた限り川本三郎が『週刊朝日』で紹介したほかはどこも扱っていない。
 『小説 永井荷風』は三十数年前に完成していたものだが、永井家の許可が得られず、出版されなかった。著者が文学者永井荷風に絶大な尊敬を献げながら、人間としての彼に否定的なせいか。しかし小島は「血の冷たいエゴイスト」と痛烈に避難しながらも、アナトール・フランス『ボードレール論』の最後の一句を引いて総括する。『なるほど、人としてボードレールは嫌悪すべき人間であるという説に私も同意する。しかし、彼は詩人であった。それ故神で──いや、神に比すべきものであった』と。この両面を見る公平な態度が『小説 永井荷風』の第一の特質である。
 「小説」とは作者小島との関係が芯になっている荷風伝という意味で、つまり「私小説的」か。彼は『あめりか物語』に陶酔し、荷風に教わりたくて三田の文科にはいったのだが、終生認めてもらえなかった。当然この伝記には、熱烈な敬愛の念が酬いられなかった愛読者の恨み節の側面がある。しかし文学の鑑賞者としての小島の感覚が鋭いし、明治から昭和までの文学的好尚のなかで荷風の作風がどんなに際だっているかを語る話術はすごい。とりわけ鈍重退屈な自然主義全盛への文壇へ『あめりか物語』『ふらんす物語』をたずさえて再登場したころの清新な風趣を論じたくだりなど、文学史家には絶えて見られぬ芸だろう。この文学史的話術の妙が特色の第二か。ただし惜しいことに、『あめりか物語』と並ぶ傑作とする『墨東綺譚』についてはこういう語り方はしていない。あれは軍人支配の時代への厭がらせとして喝采を博したものなのに、小島には事情が見えていないらしい。そして『腕くらべ』『おかめ笹』を軽んずる態度は、小島の芸術が実は私小説であることを明らかにするはずだ。
 逸してはならないのは文壇ゴシップ集としての興趣である。たとえば永井荷風編集のころの『三田文学』の原稿料は『中央公論』よりもよかった。芥川龍之介は小島がいくら褒めても荷風を認めようとしなかった。ヨーロッパ帰りの美術史学者沢木四方吉は三田の文科を立て直すため、芥川を英文科の教授として招こうと企てた。折口信夫を迎えたのも沢木の案。新橋の芸者富松は荷風と別れたあと、若い美男の株屋、槙金一と親しくなったが、彼は小島の俳句仲間。そのせいでいろいろ耳に入ってくるのは……おや、残念ながらここで話を打ち切るしかない。

『小説 永井荷風』小島政二郎 著
平成19年(2007年)12月9日

敬愛の情がにじむ“幻の書” 文芸評論家 嘉瀬井整夫

 人とも出会いは、その人の生涯をきめてしまうほどのものがある。もし、小島政二郎が荷風の作品を読まなかったら、小説家にはならなかったと、その冒頭に書いている。
 残念ながら、小島は荷風に認められることはなかったが、敬愛の情は終生変えることがなかった。そして、作品では何といっても「あめりあ物語」であり、ついで「西遊日誌抄」では、アメリカの売春婦イデスとの熱烈な恋愛が語られているが、荷風の青春を知る上には貴重な文献になっていることはいうもでもない。
 半面、小島は荷風をきびしく批判し、作品や人間としての生き方についても、加減するところがないようにも見うけられた。が、批判はあくまでも敬愛の裏返しであり、少なくとも、荷風から少しでも褒められたら、小島の態度はがらりと変わっただろう。この作品では「小説 永井荷風」となっているが、部分的にはエッセーの感を抱かせるところもあり、小説として終始したわけではなかった。逆にいうと、そのへんのところが、ほかの荷風論とは一線を画しており、引用の長さもさることながら、ユニークな荷風論となったことは、まことによろこばしい。
 また、明治文壇のエピソードを始め、荷風が慶應大学の教授に就任するまでの経緯や、女性をめぐっての裏話など、一々行文を追っていくと、小島にしか書けないところもあり、いまとなっては貴重な文献となったことは、荷風ファンにとってまたとない僥倖(ぎょうこう)といってもよいのではないか。
 なにしろ30数年ぶりに、この幻の書が、このたび書肆鳥影社によって、活字化されたことは、文学的にいって、ひとつの事件といっても、決して大げさではない。そして、繊細な小島の感性は、たとえば、随筆「花より雨に」や「日和下駄」の名品を、忘れずに取り上げてくれているところをみても、よくわかるであろう。本書は、ファンにとって外すことのできない最後の荷風論である。

『小説 永井荷風』小島政二郎 著
図書新聞 文学 平成19年(2007年)11月24日

同時代人としての荷風を活写未刊だったことがむしろ貴重に 評者・矢口進也

 近年はちょっとした荷風ルネサンスではなかろうか。荷風日記などをもとに彼の旧居や足跡をたどるエッセイが書かれたり、フランスでの荷風を再現したり、いろいろある。彼の遺宅がある市川市八幡の商店街には、「荷風ノ散歩道」と書かれた旗が街路灯ごとに吊り下げられている。そういえば、先年、市川市の文化会館で永井荷風展が開催され、なかなかの賑わいだったが、その入り口に子供たちとたわむれる荷風の写真が大きく掲げられていた。「温顔の文豪」といった趣だが、あの人嫌いで狷介な荷風のイメージとはことなる展覧会の意図には違和感を持った。「やさしいおじいさん」など、とんでもない。市民ともほとんど接触のなかった荷風は孤独のうちに死んだのだ。おそらく本人も覚悟していたようだ。
 荷風は1959年4月30日、80歳で死去しているからまた死後50年に満たない。彼と接したことのある人、ないし同時代人として見聞を持つ人はまだ多いだろう。しかし本書の著者小島政二郎は中学四年生のとき、荷風の『あめりか物語』を読んで感動し、文学を志したというからおそろしく古い。しかしそこが値打ちなのだ。同時代感覚が生き生きと再現されている。『あめりか物語』の出版は1908年。当時の文芸界は、北原白秋『思ひ出』が刊行され、与謝野寛の新詩社が全盛を誇っていた。また小山内薫の自由劇場がイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を上演した。この鴎外訳が「国民新聞」に掲載されたのも異例のことだったという。当時、小島政二郎は15歳。文科を志望しても父の許しが出ようはずもなく、前途に迷い、学業もおろそかになっていた。やはり実業に就くことを求められ、アメリカでも銀行勤めをさせられていた荷風の青春と重ね合わせて小島は自分の学生時代を振り返る。やがて荷風が慶應義塾に招かれると志望をごまかして入学する。文科は予科生が15人しかいなくて2年になると小島と三宅周太郎の二人以外ことごとく落第した。これでは文科の復興など望めない。荷風は長くは存任せず小島らも失望するが、帰朝した沢木四方吉が『三田文学』を復刊したことで大学に残れることになる。……しかしこれは後の話で、本書は遊学時の荷風をさらに詳細に叙述する。素材は『西遊日記抄』。荷風はもとより銀行員になどなる気はない。父にそむくこと(彼にはそんな勇気はない)ができず、表向きは銀行員だが、劇場に通って連日のようにオペラや音楽を鑑賞、さらにフランス語の勉強をする。こういうことには勤勉そのものだった。女ともなじみになる。遊学前からすでに遊蕩児だった荷風はイデスという女に親しむが、フランスに渡る折に手を切る。彼ははじめから別離を用意しているのだ。鴎外が帰国した後エリスが後を追って来日した。このことについて荷風は「鴎外先生は日本にいたとき全然遊んでいないからああいうヘマをやるのだ」ち自慢げに言ったのを私はこの耳で聞いている、と小島は書く。
 明治・大正の文芸界の話が出てきて巻を措くことのできない記述がつづくが、はしょって書くと、荷風は父の死後その遺産を相続する。当時は長男が相続することになっていたから荷風はそれを取り、母にも弟威三郎にも分与しなかった。さらに、その母の不要を弟に押しつけながらその弟を悪しざまに言う。人格を疑わせるところだ。荷風は面と向かって断ることのできない人で、面談で承諾してもあとから書状で断りを入れる。いきさつが表に出ると相手がすべて悪いような書き方をする。今日生きていたら荷風はメールで書き込みをしたかもしれない。
 私家版や「四畳半…」などの執筆意図にも筆が及び、荷風を活写した好著で、本書が1972年にできていながら未刊だったことがむしろ貴重なことに思う。時代を30数年さかのぼった感覚で読むことを勧めたい。(本誌編集)

『小説 永井荷風』小島政二郎 著
週刊朝日 平成19年(2007年)11月16日

師と慕う荷風への愛憎が交錯する幻の本 評論家 川本三郎

 いわくつきの荷風本。
 昭和47年(1972)に校正も終わり、いよいよ出版という時に、永井家の許可が得られなかったために出版が出来なくなった。その幻の本が30年以上たって陽の目を見た。
 小島政二郎は東京の下町、下谷の生まれ。江戸っ子文士といわれた。芥川龍之介は菊池寛との交流を描いた自伝的小説『眼中の人』や文壇もの『鴎外・荷風・万太郎』、食の随筆『食いしん坊』などで知られる。
 小島は少年時代から同じ東京出身の永井荷風に傾倒。荷風が慶應義塾の教授になったので、荷風を追って慶應に入ったほど。
 ところが文壇に出た小島は荷風の逆鱗に触れてしまう。「尊敬の一心を込めて書いた『永井荷風論』によって、――十のうち九までは礼賛の誠をつらねた中に、ホンの一つ、私が荷風文学の病弊と見た点を指摘したことによって、彼の怒りを買った。九つの真心は彼の胸に届かず、僅か一つの直言によって終生の恨みを招いた」。
 師と慕う荷風に忌避される。その無念の思いが込められている。「小説」と銘打たれているが随筆風の評論になっている。荷風への愛憎が交錯し実に面白い。
 荷風の心の狭量狷介はよく語られるが、小島はそれをまざまざと見せられてしまった。といって一方的に荷風を批判しているわけではない。「その作家に愛を感じるまで批評をするな」(『眼中の人』)という信条の主だから、批判はしても根本のところで荷風への敬愛が見える。
 少年時代の小島にとって、洋行帰りの荷風がいかにハイカラで颯爽としていたか。暗くくすんだ自然主義の文学の時代に「あめりか物語」はいかに明るい青春の文学だったか。「断腸亭日乗」に比べると語られることの少ない「西遊日誌抄」を、ここには青春の煩悶があると評価しているのも興味深い。
 しかし、荷風はその後、文壇に熱く迎えられたために気がゆるみ、見るべき作品が少なくなる、と次第に小島の筆は厳しくなる。「すみだ川」など「人生に触れる」ことを忘れてしまった作品だ、「新橋夜話」などただ人情を見ているに過ぎない。「芸術家ともあるものが、人情などに興味を持ってはおしまいだ」「『新橋夜話』時代の荷風は、堕落時代だ」と手厳しい。
 それでいてのちの「?東奇譚」は評価するし、荷風文学の良さはその風景描写にある、荷風は目に見えない心理を描写するより目に見えるものを楽しむ「ヴィジュアライザー」だと指摘するところなど荷風の特質をよくとらえている。
 批判と評価、険悪と愛憎が右に揺れ、左に揺れる。そこに本書の複雑な面白さがある。
 作品を離れて荷風の人となりも痛罵する。とくに二点。
 ひとつは昭和はじめの円本ブームの時。荷風は初め、これを文学の堕落と悲憤慷慨していたのに、のちにそれを忘れたかのように自分も円本の仲間入りしてしまう。なんと節操のないことと小島は怒る。
 もうひとつは、荷風が素人の女性と結婚しておきながら、わずか半年ほどで離縁したこと。女性が可哀そうだと小島は義憤にかられる。
 罪もない素人の女性をキズ物にして離縁するとはなんと非情な。「冷酷無慙な荷風の性格の無責任さを私は責めずにはいられない」。
 そして小島は、知人を通して知ったこの女性の優しさを、そこは小説仕立てで描き出している。
 荷風の特異な女性観はこれまでもさまざまに批判されているが、この最初の奥さんをこれほど擁護し、荷風を激しく批判する人は珍しい。
 結局、小島は、荷風という人は遠くから眺めているに限る、近づくと気まずくなるのが落ちだという。
 しかしこれだけ嫌な奴といわれても「?東奇譚」や「断腸亭日乗」は今日も名作として読み継がれているところに文学の不思議がある。

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